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死に対する心備え

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現在コロナウイルスのニュースが連日報道されています。日ごとに感染者数、死亡者数が増えてきています。このような状況下、不安に襲われてしまう方もいると思います。クルーズ船に乗船していた高齢の方が亡くなられました。豪華な船旅を満喫しておられたのに新型コロナウイルスに罹かり、まさか自分が死ぬことになるとは思っていなかったことでしょう。しかし「死」は、ある意味で、いつもまさかという時にやってくるものだと思うのです。その日が来た時に「まだ準備ができていなかった」ということがないように、聖書の御言葉からお話させて頂きたいと思います。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。                 (詩篇90:10、12)

私たちは必ずいつか死を迎えます。しかし私たちはこの事をどこまで理解しているでしょうか。知らない世界に行くのですから、不安になるのは、ある意味で当たり前です。しかし私たちの一番の恐怖は「死とは何なのか」だと思います。それに対しての正しい答えをと持っているならば、私たちなりの対処ができるでしょうし、死への備えを持つことができるようになると思います。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている    (ヘブル9:27)

人は誰でも必ず死ぬのです。死を迎えない人はいません。しかしここで大切なことは、死と同じくらい確かなこととして、聖書は「死んだ後で裁きがある」と語っていることなのです。悪い事をし放題していて、何の咎めもないのはおかしいと思う気持ちは誰でも持っています。しかしそれが自分に向けられているということを案外忘れているのです。やがて人には、それぞれの行いに応じた裁きがあるのです。果たして私たちはその裁きに対しての備えができているでしょうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。         (ヨハネ3:16~17)

神様は、ひとり子(イエス・キリスト)を世(人間)にお与えになった(十字架にかけた)ほどに私たちを愛された、と語っておられるのです。そして信じる者が一人も滅びないで永遠の命を持って欲しいと願われているのです。イエス・キリストが十字架にかかって死んだのは、私たちが自分の罪のために裁きに会って滅びてしまうことがなく、永遠の命、神様から与えられる喜びと希望に満ちた命に生きるためなのです。では、どうしたらその命にあずかれるのでしょうか。

見よ。わたし(イエス・キリスト)は戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。(黙示録3:20)

「戸」とは「心の扉」です。イエス・キリストはあなたの心の戸を叩いておられるのです。「開いて私を迎え入れて救いを受け取ったらどうですか!」と。イエス様は、この扉を無理やりにこじ開けるようなことはなさいません。あなたの自由意志で「どうぞお入りください」と心を開くならば、イエス様は中に入り、あなたと共に食事(交わり)をすると語っておられるのです。そして私たちに豊かな命を与えてくださろうとしているのです。「死後に裁きを受けることが定まっている」とありましたが、実はこの裁きは全部イエス・キリストが身に負ってくださったので、私たちは神様との交わりを持ち、永遠に滅びることのない命を持つことができるようになっているのです。またこの命は、単に永遠に続く命という意味ではなく、神様がいつも共にいてくださり、慰めや励まし、力、希望や喜びも与えてくださる命なのです。これは私たちがイエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として受け入れる時に与えられる命なのです。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。                     (ヨハネ3:18~21)

ところが神様を拒む人は「そういう話は聞きたくない」と心を閉じるようになります。すると心が段々と暗くなり固くなります。更に人の目を恐れ、不安などに縛られてしまう生き方になってしまうのです。反対に神様を信じるようになると、自然に真実とか真理とかを求めるようになり聖書も読めるようになるのです。そして今まで持っていた不安や恐れなどが段々と減っていくのです。

「イエス・キリストが十字架にかかったのは、私のためであった」と受け止めることのできた人は、罪が赦され、更にその人の内から消えていき、今まで知らなかった生きる喜びや生きがい、力や希望が徐々に与えられていくのです。でも拒否する人は、残念ながらこの恵みを体験することができないのです。もしあなたが「私にも確かに赦されなければならない罪がある、汚れがある」と告白し、イエス・キリストを救い主として信じ「どうぞ、私の心にもお入りくださり、私の内に新しい命を始めてください」と祈るなら、神様はその時に恵みの業を始めてくださり、その人もまた神様の内に留まることができるようになるのです。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(Ⅰヨハネ4:15~18)

最初は半信半疑であったとしても、私たちの罪の身代わりにイエス様が十字架で裁かれてくださったと信じ、この神様の愛を受け取っていく時に、段々と恐れが消えていき、裁きをも恐れなくなってくるのです。信じても相変わらず私たちは罪を犯すのですが、それでもなお「私は赦されている、愛されている、受け入れられている」と言うことができるのです。

でも神様が私たちを愛しているならば、なぜ嫌な事、酷い事が日々起こるのでしょうか。これは子育てを考えてみるとわかると思います。親が子どもに対して何の訓練もしなければ、きっと生きることが難しい子どもになるでしょう。私たちにいろいろな苦しみや困難があるのは、そこには意味があるからなのです。その時は大きな苦しみでしたでしょうし、辛い経験であったと思います。しかしそのことを通して大事なことを学ぶ事が多かったのではないでしょうか。神様は私たちのために敢えて、その苦しみを許しておられると受け取ることができると、考え方が大きく変わります。そして、聖書(神の言葉)は「神様は試練と共に脱出の道も備えてくださる」あるいは「耐えることのできる力を与えてくださる」更に「その期待は失望に終わることはない」とも語っていてくださっているのです。神の言葉の約束に基づいて歩み始める時、私たちは困難や試練の中でも立ち上がる力が与えられることを経験するのです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)

この愛をしっかりと受け取りましょう。その時に「私には恐れがありません」という生き方が徐々に現れてきます。世界が不安に陥る中で、確かな平安を、安心を神様(イエス様)に求めてください。「十字架の救いをもう一度はっきりと受け取らせてください」とぜひ祈っていきたいものです。

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