昨日のテレビ番組は、殆どが東日本大震災特集を放映していました。色々な気持ちになられたかと思います。映像を見るだけでその時に戻ってしまい、気持ちが落ち込んだり、不安になったり精神的な影響を受けることがあるからなのです。本日はそういう心の傷や寂しさ、悲しさ、痛みからどのように抜け出していけば良いのかを聖書から学ばせて頂きたいと思います。
なぜ、過去の出来事を想起させるものを見たり聞いたりすると苦しくなってしまうのでしょうか。実はそこには1つの傷ついた感情があるからなのです。
「あの時以来、愛する家族、親族、友人と別れてしまった。あれもしてあげたかったし、こうも言いたかった。でももうそれができない」なんとも言えない寂しさ、悲しさと罪責感があるのです。そしてそのことを思い出すとどうしようもなくなってしまう。なぜかと言うと、それに対するきちんとした対処、解決がなされていないからなのです。もし、それを乗り越えていれば、そのような事があっても受け止められるようになるのです。
多くの場合には、震災もそうですし、皆さんが出会ってきた様々な苦しみ、辛かった経験、悲しかった出来事も正しい対処がなされていないために、それらを思い出し、それに関係することが出て来るだけで心が震えてしまうことになるのではないかと思います。
こんな時、私たちは多くの場合、対処方法として、辛い出来事には蓋をして、思い出さないよう、見ないようにして、そこを乗り越えようとしてきたと思います。あるいは、衝動買いやゲームなどの楽しい事に走って悲しい事を忘れ、憂さを晴らそうとすることもあると思います。時にはそれなりに気分が晴れたよう思える事もあると思うのですが、多くの場合それは一時的なもので、その時だけは気持ちが上向いたとしても、しばらくすると、ドスンと再び心が落ち込み、再び忘れようとゲーム依存に陥ったり、様々なものが手につかなくなったりして、結局乗り越えられたのではなく、単にやり過ごしただけだという事に気づく事が多いのです。ではこんな時は、どうしたらいいのでしょうか。
自分の思いを打ち明ける
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。マタイ11:28-29
私たちは疲れた時には、まず休むことが大切です。でもどこに行って休めばいいのでしょう。聖書は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と言って下さっています。
多くの場合、人は重荷を持って暗い顔をしていたならば、邪魔者扱いすることが多いのではないでしょうか。しかし神様は、私たちが「疲れた。もうどうしようもない。やりきれない。寂しい、悲しい、虚しい」といくら愚痴を言ったとしても受け止めて下さいます。どんなに良い人でも、人には限界があります。だからこそ、私たちは人にではなく、神を求めるべきなのです。あなたに必要なことは、この『神様』に向かって顔を上に向けて自分の思いを正直に申し上げること、祈ることなのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます
ピリピ4:6-7
あなたの具体的な悩み、苦しみ、痛み、辛さ、不安、恐れ、寂しさを正直に神様に申し上げてみてください。そして最後に「イエス・キリストのお名前によってお願いします。」と祈ってみて欲しいのです。その意味は、「イエス・キリストが成してくださった十字架の故に、私の罪を赦し、祈りを聞いて下さい」という意味なのです。「イエス・キリストの御名によって」というのは、小切手に名前の裏書があることなのです。つまりそれによって、銀行はいつでも現金化してくれるように、イエス・キリストの名前によって、皆さんが祈ることによって、皆さんの祈りも聞き届けられるのです。これが祈りということなのです。皆さんの心にあることは、どんな事でも申し上げて良いのです。こんなことを言ってはいけないということはありません。どんなことでも正直に申し上げていく時、すべての理解を超えた神の平安が皆さんの心をキリスト・イエスが守って下さるのです。そしていつの間にか、皆さんの肩の荷が軽くなってきているのが感じ取ることが出来るのではないかと思います。
十字架に示された神の愛
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりとする。 イザヤ43:4
もう一つ大切なことがあります。それは、私たちは、他人と比較して自分が劣っていると感じて惨めな気持ちになることがよくありますが、神様はあなたが自分をどのように見ようとも、「わたし(神)の目には、あなたはそのままで高価で尊いのだ」と言われていることを知り、認めることです。
これが神の愛なのです。そして、その神の愛とは、神の一人子(イエス・キリスト)の命を身代わりにするほどに私たちを愛してくださっている愛なのです。これは表面的な綺麗ごとではありません。自分が血を流して、痛みを負ってまでも私たちを救い出そうとする愛。それを心の真ん中で受け取っていかれるなら、あなたはきっと変わり始めることが出来るのです。
彼(イエス・キリスト)は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。イザヤ53:3-5
これはイエス・キリストが生まれる700年も前に預言者イザヤがイエス・キリストを指して預言した言葉です。この預言は2000年前に成就しました。イエス様は十字架にかけられたのです。彼は罵られ、唾を吐きかけられ、蔑まれ、鞭で打たれました。その鞭先には貝殻、骨、鋼鉄などが組み込まれていて、それが肉に食い込み、そこから鞭を引けば肉が裂けます。そのような惨たらしい姿は人が顔を背けるほどです。その身体で鞭打ち場から十字架を背負わされ、刑場のあるゴルゴダの丘へ向かって行ったのです。十字架の上でイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈りました。「彼らの罪の罰は私が受けるのだから、その罪を赦してあげて欲しい」と。イエス様はそのようにして、私たちの赦しを成し遂げて下さったのです。痛みを担い、すべての罪の罰と呪いを全部身に受けて十字架の上で死んで下さったのです。それ故イエス様を信じる者、イエス様の助けを求める者には誰でも、すべての罪と呪いと禍から解放され、癒されるのです。過去の様々な悲しみや苦しみや痛みに苛まれる私たちに真の平安をもたらして下さるのです。たとえその傷がどれほど深く、悲しく、どうにもならないと思うものであったとしても、それは、癒されるのです。ですから、最初にお話ししたように、辛いこと、悲しいことを避けて通るのではなく、誤魔化すのでもなく、神様に自分の気持ちを正直に打ち明けて頂きたいのです。そして、「こんな私のためにイエス様は身代わりの十字架を受けて下さったのだ」と受け取って頂きたいのです。その時不思議な神様の力により、私たちは癒されていくのです。イエス様の十字架は本当に、あなたの罪を赦し聖めるためであったのです。ですから、イエス様を自分の罪からの救い主として信じ受け入れる時に、皆さんの心は癒され平安になり、喜びが与えられ、生きる希望が出て来るのです。私達に必要な事はイエス・キリストを救い主として「今、心にお迎えします」と祈ることなのです。