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天国行きの切符を持っていますか Ⅱ

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「春眠暁を覚えず」と始まる中国の孟浩然の漢詩をご存知でしょうか。「春眠暁を覚えず 処々啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること 知る多少」(春の暁は気候も暖かく、心地よい眠りに夜が明けたのも知らず寝過ごしてしまったが、ふと眼を覚ませばあちらこちらで小鳥の啼く声が聞こえる。そういえば、昨夜の風雨の音がはげしかった。あの嵐で庭の花はさぞたくさん散ったことだろう)

年齢を重ねると、小鳥の啼(な)き声などなくても目が覚めてしまっていると思いませんか。本日は、年齢を重ねるとはどういうことか。またその備えは何かを聖書から学ばせて頂きたいと思います。

その日に備えて

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を持たせてください。 詩編90:10、12

この言葉が書かれた時代は、70歳と言えばかなりの高年齢でした。今では日本の平均寿命は男女合わせても85歳を超えてきて、私たちの寿命は長くなってきています。しかし『それは瞬く間に過ぎる』というのは納得できるのではないでしょうか。自分自身が、その齢を重ねたとは感じられずとも、確かに時は過ぎ去っています。そして、『そのほとんどは労苦とわざわい』とあります。「私は良い事ばかりでした」と言える人は幸いです。でも、年齢を重ねるほど、辛い事や悲しい事を多く経験するのではないかと思います。『自分の日を数える』とは、残り余命何年かということではなく、必ず迫ってくる“その日”があることを正しく数えて、その備えをするということなのです。

土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。空(くう)の空(くう)。伝道者は言う。すべての空(くう)。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これは人間にとってすべてである。神は、善であれ、悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。伝道者の書12:7-8、13-14

これはソロモン王の言葉です。彼は知恵も、富もあらゆることにおいて秀でた人物でした。やる気も失せることもなく、能力もありました。しかしその彼が、『すべては空』(全てが虚しい)と言うのです。全てのものを手に入れ、なお虚しいと感じるのは正しく日を数えてこなかったということではないでしょうか。

平安時代、在原兼平が詠んだ「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」という歌があります。これは「やがて来るとは聞き知っていたけれども、まさか今日だとは思わなかった」という意味の句です。私たちは、「ちゃんと用意して待っていました。喜んでそこに向かうことができます。大丈夫です」と言える備えをしていきたいと思います。

裁きに備えて

やがて私たちは、みなが塵に帰るのです。トラは死して皮を残すと言われていますが、人は死んで何を残すでしょうか。一生懸命にお金を貯め込みますか。私たちは死ぬ時には何1つ持っていくことができません。私たちは、何を大切にすべきなのかを見極める必要があります。さらに『神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる』という言葉も畏れを持って受け止めていきたいと思います。私たちは、今のままの状態で神様の前に出ることができるでしょうか。私たちは、人と比べて自分がそんなに悪い人間であるとは感じることは少ないでしょうが、胸に手を当てて考えるのならば、「あの時は確かにやってはならない事をした、言ってはならない事を言った」など、悔いと言いますか、様々な失敗や反省すべきことを多々思い出すのではないかと思います。そして聖書にははっきりと『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』(ヘブル9:27)と書かれているとおり、人間には裁きを受けることが定まっているのです。もしも、天地を造られた神が本当にいるならば、悪い事をした人への裁きをそのままに放置しておくのは、不公平ではないでしょうか。それでも公正な神であると言えるのでしょうか。人が自分の行いの裁き、また報いを受けるのは、ある意味で当然なのです。しかしそうだとすれば、私たちの将来は裁きの道であり、何の希望もないことになってしまいます。しかし実はその先に輝く未来があるのです。輝く希望をしっかりと握りしめて、本当の意味で「私は大丈夫」と確信を持って言えるようになる道があるのです。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。 Ⅰヨハネ4:15-17

『私たちはさばきの日に確信を持つことができます。』今日お伝えしたいことはここです。『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』のですが、私たちは、その裁きの日に「私は大丈夫。救われて天国に行ける」という確信を持つことができるのです。ではどうしたら、その確信に立つことができるのでしょうか。それが『だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら』に隠されています。まず“誰でも”です。どんな人でも「神がイエス・キリストをこの世に遣わされたのは、私の罪を赦すためであったと認めるなら」という意味です。「私の罪を赦すためにイエス・キリストは身代わりに十字架で死んでくださった」と心から言えるならばです。難しいことではないのです。これだけで、私たちは裁きの日にも、「私の罪は赦されて天国に行ける」と確信を持つことができるのです。

もし、自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:8-9

しかし私たちは、自分自身の弱さや過ち、失敗を認めたくないのです。それはプライドの故です。ですから胸に手を当てて考えてみる必要があるのです。そうすると、悪い人間ではないと思っていた自分にも様々な悪い思いや言動があったことを思い起こすに違いありません。憎んだこと、恨んだこと、意地悪をした、裁いたこと、それらに対して心から自分に罪があったと認めることなのです。そしてその罪を赦すためにイエス様が来てくださったのだと認めるのです。これは神様とあなたとの間での交わりが回復するためなのです。それはあなたを責め立てるために言っているのではないのです。神様は「わたしはあなたの罪をもう全部十字架で赦している。わたしの愛を受け取りなさい」と語っておられるのです。私たちの多くは罪責感というものを抱えています。しかしそれをなかなか認めることできないのです。しかしこの罪責感をそのままにしていますと、神様との間に隔てができてしまい、神様の愛と赦しを受け取れにくくさせるのです。反対に赦されたことを知ることができると、不思議に罪責感からも解放されていくのです。そしてこの事のために十字架があったのだと、感謝して受け取ることができるようになるのです。ですから隠していたり誤魔化していた罪を正直に神様に自分の罪として告白することをお勧めします。その時、不思議な平安があなたの心を満たすでしょう。「私が悪かったのです。ごめんなさい」と言うことができると、人間関係も改善していくことができるのです。自分の罪を言い表せるのは解放です。神様が責めておられないことを知るからです。あなたの罪を赦し、ありのままのあなたを受け入れ愛してくださる神の愛を是非受け取って頂けたらと願っています。

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