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“まさか”の時に備えて

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一時期は、いつまでコロナ感染が続くのかと懸念していましたが、宮城県内では、連日感染者数が一桁になっていますし、東京でも100人を切ってきています。少し前までは、考えづらいことでした。この2年間のコロナ感染で皆さんの生活は如何でしたでしょうか。何もかもが変わったとい状況であったと思います。このように人生には“まさか”というような事が起こります。そのような時にどう対処したら良いか。今日もそのことをご一緒に考えたいと思います。

“想定外”への対処

にわかに起こる恐怖に、悪しき者たちの来襲に、おびえるな。主があなたの頼みの綱であり、足が罠にかからないように、守ってくださるから。箴言3:25-26

あらかじめ用意ができていたならば、“にわかに起こる恐怖”にあまり驚くことはありませんが、急に来るので「どうしよう」となります。しかし「それらを恐れるな」と言います。なぜでしょうか。急に起こる出来事なのですから恐れるのが普通でしょう。しかし罠にかからないように守ってくださる神がおられるというのです。恐怖におびえる私たちが、咄嗟の時にこの御言葉を思い出すならば、恐怖をやわらげることができると思います。恐怖を感じると普通右往左往してしまい、冷静な考え方ができなくなってしまうのです。ですから必要以上に慌ててしまうのです。

私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。ピリピ4:11-13

これはパウロが語った言葉です。彼は、ユダヤ人ではありましたが、ローマ市民権を持ち、特権階級の人でした。と同時に、彼は鞭打たれ牢獄にも入れられたのです。特権階級の人生と、牢獄暮らしの人生の両方を知っている彼が、どんな境遇にあっても、対処する秘訣を心得ていると語るのです。そしてその秘訣とは「私を強くしてくださる方によって」だと!「イエス・キリストによって、どんな苦しみにも耐えて、どんな境遇にも打ち勝っていくことができる」と彼は告白するのです。では私たちも同じように告白できるかと言うと、なかなか難しいのではないでしょうか。それは私たちがパウロのような神様への信頼をも持つことが難しいからです。そして私たちが神様から離れているため、神様の恵みをそのままでは頂けない状況の中にあるからなのです。

私たちもみな、不従順な子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 エペソ2:3-10

神様が私たちに用意してくださった素晴らしい救いの計画の設計図が記されています。まず語るのは私たちが「不従順な子で自分の欲のままに生き、御怒りを受ける者」だということです。私たちは、そんなに自分が悪い人間ではないと思っている事が多いと思います。普通の状態であればそうです。しかし切羽詰まった状態であればどうでしょう、いざとなると、人間は醜くどす黒い姿を現すようになると思いませんか。コップの中に泥水を入れて、しばらく何もしないで放っておくと、泥が下に沈殿し、透き通った綺麗な水であるかのように見えてきます。しかし棒をその中に入れてかき回すと、泥がかき混ぜられて、一瞬で汚い水に変わってしまう。これが私たちの本当の姿ではないでしょうか。このままの姿では、神様は私たちを恵みに満たすことができないのです。

唯一の”レスキュー隊員”

見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。イザヤ59:1-2

もし、自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 Ⅰヨハネ1:8-9

でも、私たちが自分の罪を告白するならば、神様はその罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるというのです。イエス・キリストの十字架だけが、あなたの心を聖めることができるのです。もし皆さんが、自分の罪からの救い主としてイエス・キリスト信じているならば、あなたには既に罪赦されて永遠の命が与えられています。死んだ時には肉体の命としては滅びますが、信じた瞬間から永遠の世界の命が始まっているのです。地上と天国の二重国籍の状態です。「天上に座らせてくださいました」と完了形の形で書いてあります。その瞬間に、天国に座を得ているという意味なのです。あなたの罪をすべてイエス様が背負い、あなたの罪が十字架で処理された。だから、イエス様を信じる者は、誰でも恵みに与ることができるということなのです。

わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。エレミヤ33:3

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。箴言3:5-6

どうしようもなくなった時は、とにかく「神様!」と叫ぶことです。自分の経験、能力に頼ったとしても、人間は万能ではないのです。そこにイエス様をお迎えする。あらゆる所に神様がおられることを認めると、神様が歩むべき道を真っ直ぐにしてくださいます。

先日ある方がこんな話をしてくれました。彼は車の整備士なのですが、たった1つのボルトをしめるだけなのに、2時間、3時間かけても全然はまらなかったそうです。時間ばかりが経過していく中で、祈っていなかったことに気が付き、すぐに神様に祈ったら1つのアイディアが浮かんできて、それを試してみたら、難なくはまった、もっと早く祈るべきだったと話してくれました。

皆さんの生活の中に、どれほど祈りがあるでしょうか。苦しみの時、困難な時に祈る。そうすると、神様は応えてくださる、助けてくださる経験をされると思います。

何も思い煩わないであらゆる場合に、感謝をささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4:6-7

あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。Ⅰペテロ5:7

自分の心の中にあることを全部そのまま神様に申し上げることです。そうすると、いつの間にか平安の部分が少しずつ増えていきます。「私のこの問題は、自分で何とか解決していくんだ」と言わずに、神様に祈り、委ねるなら、気が付くと平安を味わうことができる体験をすることでしょう。

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