3月16日(2022年)に再び大きな地震が発生しました。揺れの感じ方は、東日本大震災の時よりも今回の方が凄かったようにさえ感じました。もうあれ程の地震は来ないと思っていたのですが、そうではないことを教えられました。揺れた時に、恐怖を感じた方、これ位ならば大丈夫、どうやって逃げたなら良いかなどと思った方など様々であったと思います。私自身は、揺れは激しかったのですが、家が潰れるほどではないと感じましたし、仮に家が倒壊するようなことがっても、神はすべてのことを益にして下さるのだから、それはそれで「大丈夫だ」という不思議な思いになりました。聖書の言葉や信仰は、頭で分かっている、理屈では分かっているというだけでは、不十分なのだと思います。神様が共に居て守って下さると思える時「本当に大丈夫」だと思えるようになるのではないかと思います。
揺るがない安心感
ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配するのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たいよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。マタイ6-25:34
空の鳥は人間のように働きませんが、生きていくために必要なものは全て神様によって備えられています。あなたがたはその鳥よりも遥に価値があると言っているのです。神様は、鳥のためにさえ必要なものを備えて下さるのであれば、まして人間のために備えをしないはずがないでしょうと。ところが、私たちはそれを忘れてしまい、あれも心配、これも不安と考えて気を揉んでしまうのです。心配事は心配するべき時に心配し、考えるべき時に考えれば良いのですが、私たちは前もって心配するあまり、時に身体を壊すまで悩んだり苦しんだりするのです。私たちは全てを備えて下さる方を離れて自分の力だけで生きようとする時、不安になるのです。神様を思い起こし、生かされていることを思い起こす時、大丈夫という思い、安心感が大きくなってきて、大らかに、健康にもなっていくのです。ところがこの事を忘れてしまうので、不安や恐れにいつも苛まれるということになリ易いのです。
本日知って頂きたいのは、私たちが思い煩うのは、神を無視している時なのだということです。私たちは、神様の成さることを1つ1つに「大丈夫なのか?」「絶対安全か?」と疑ってかかってしまい、それが私たちを心配の虜にしてきたのです。神様の「大丈夫なのだよ」という言葉を信じることができるならば、こういう気持ちは減っていくでしょう。今回の地震も、揺れが酷くなって、家が壊れたとしても大丈夫と思えたのは、そうなったとしても何とかして下さる神様に気づく時なのです。
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。 ローマ8:28
神様は、すべてのことを働かせて良い事の計らいとして下さるのです。後から振り返れば、あの出来事、この出来事は必要だった、あの事が無ければ自分がとんでもない人間になっていたかもしれないという事柄も多々あるのではないかと思います。私たちは近視眼的で目の前の事しか見えていないのですが、神様は全体を俯瞰しておられる方です。本当の意味で良い事を成さっているのです。「どんな事でもわたしはできるし、全てのことを益に変えることができる」と言われているお方を信頼するならば、安心することができるのです。
正直な自分の気持ちを神に告げる
あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。Ⅰペテロ5:7-8
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4:6-7
私たちは心配事、問題に対して自分の手に負えない事で悩んでいることがあります。その事を一切神様にお任せすれば良いのです。ところが私たちは「お任せします」と言ってから、「でも、ここはこのやり方でお願いします」とか「ここも、もっとこういう感じで」と神様に委ね切れない、様々な姿を現し始めます。すると神様は「それならば、あなたの思う通りにやってご覧なさい」と、あなたが全面的に神様に委ねるまで、手を引かれることもあるのです。自分で心配することを止める時に、神様があなたのことを心配して下さるのです。神様は私たちがどんなに心配性かをご存知です。私たちがどんなに思い煩っているのかを知っているので、心配することはないと何度も言っています。「思い煩い」という言葉の元々の意味は、「心を分ける」という意味です。心を分けることを止めて、神様に一心に向かってみなさいということです。そして、感謝をもって祈りを捧げなさいと言われるのです。正直な自分の気持ちを神様に言ってみて下さい。神様に対してもっと信頼する心が段々と生じてきて、穏やかに接する気持ちになり、いつしか全ての理解を超えた神の平安がイエス様にあって私たちの心を守って下さるということを経験するようになるのです。しかし自分の気持ちを正直に言えないという方もおられるかもしれません。神様の前に正直になれないのです。それは誰にも知られたくない隠しておきたい部分です。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちのすべての不義からきよめてくださいます。 Ⅰヨハネ1:8-9
自分の嫌な部分、特に罪を告白するのは躊躇するかもしれません。でも神様に正直に告げるなら、その時に神様は、心を聖めて下さり、気持ちも明るくして下さるのです。ですから、良い事も悪い事も洗いざらいを神様に正直に告白して頂きたいのです。皆さんが正直に気持ちを言えば言うほど、イエス様の十字架による赦しの故に心がホッとしてくるのを感じると思います。これが神様に信頼する者に与えられている恵みなのです。告白によって罪が聖められるのは、イエス様が十字架で私たちの全ての罪の罰を既に負って下さったからです。ですから神様は私たちの祈りにも応えて下さるのです。そして祈りに応えられる経験が積み重なってくると、神様への信頼も増していきます。たとえ地震や洪水、何が来ようとも「神様が一緒ならば大丈夫」という思いが段々強くなっていき、安心感が広がっていくのです。どんな中でも人の全ての理解を超えた神の平安に生きられるようになって頂けたらと願っています。