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死への備え Ⅱ

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『ついに行く道とはかねて知りしかど、昨日今日とは思わざりしを』と死について歌った歌人がおりました。私たちもやがては必ず「死」を経験するのですが、自分事となると「まだ先の話」と思ってしまっていることが多いように思います。確実にやってくるのに、あまり備えをしていないというのが現実ではないでしょうか。旅行に行く時に何の準備もしない人はいないように、私たちも年と共に“その日”が近づいていることをわきまえて「死への準備」について今日ご一緒に考えてみたいと思います。

イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6

これはイエス様の言葉で、一見すると、狭い考え方のように思われます。一方『分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな(宗教の入り口はいろいろと違っていても、最終的に到達するところは同じである)』は一休和尚の言葉と言われていますが、これが懐の広い日本人の考え方で受け入れられ易い言葉と考えられます。両方を比べてみるなら、イエス様の言葉は独善的で「自分だけが正しく唯一である」と言っているように聞こえてしまいます。果たしてそうなのでしょうか。これが私たちにとってどんなに大切な言葉であるかということをお分かちしたいと思います。

進べき道の選択

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家(天国)には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところに、あなたがたもおらせるためです。ヨハネ14:1-3

まず知って頂きたいことがあります。それは天国にはたくさんの家があるのだということです。それ故求めるならば、誰にでも開かれているのです。イエス様は十字架にかかり、死んで三日目によみがえって復活し、その後四十日間弟子たちと過ごされてから、人々の目の前で天に帰って行かれました。それは私たちのために場所を備えに行くためでもありました。ですから求めるならば誰でも、天国に入ることができるようになったのだということを知って頂きたいのです。しかしその上で、冒頭のヨハネ14章6節の言葉に戻りたいのですが、こんな言葉を平気で言える人とは、①正気ではない ②大嘘つき ③言われている通りの方である場合が考えられます。イエス様は「私を通してでなければ、一人として天国には入れない」と言われたのです。ここで私たちは判断しなければなりません。イエス様は正気でないのか、嘘つきで、私たちを騙そうとしているのか、本当に語った言葉通りの人物であるのかをです。

あなたがたのうちだれが、わたし(イエス・キリスト)に罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。ヨハネ8:46

もし私自身が同じ言葉を言うならば、「責めることがたくさんあります。大嘘つきです」と言われるに違いありません。身近で一緒に生活すれば、その人物がどういう人となりかは分かります。三年半イエス様と寝食を共にしていた弟子のペテロが語った言葉が次に載っています。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりした。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。Ⅰペテロ2:22-24

三年半の時間を共に過ごして、その人の過ちを見抜けないということがあるでしょうか。良い人、素晴らしい人はいますが、「この人は一度も罪を犯したことがない」という人が存在し得るでしょうか。一度も嘘をつかない、一度も不誠実なことはない。一度もいい加減な事をしたことがない。そんな人はいないと思います。ところが「イエス様はそういう人であった」とペテロは言うのです。そればかりか、そのイエス様の生涯が、私たちを救うものであった。「イエス様の十字架を通してでなければ天国に行けない」というのが、彼らが、また聖書が語るメッセージなのです。

天国には、罪を持った人は入れないということは理性で考えれば分かることです。私たちは「これくらいの罪なら問題ないでしょう」と甘く考えていますが、神様は、たった1つのシミでも見逃すことはできない聖い方です。罪を持ったままでは天国に入れないというのは自明の理です。もし妬みや恨みや騙し合いなど様々な罪をそのままにして天国に行くとするならば、そこはもう天国ではなくなってしまいます。罪は必ず処理されなければならないのです。しかし、私たち自身では、自分の罪の解決をすることができません。ですから、イエス様が十字架にかかり、私たちの罪をその身に負われたのです。それ故私たちは罪が赦され聖められて天国に入ることができるようになったのです。イエス様を救い主として信じるならば、その罪は赦されるだけではなく、聖められるのです。そして、『私たちが罪を離れ、義のために生きるためです』とありますが、イエス様を信じると、段々と罪の性質、力から離れていくことができるようにようになるのです。弱さに打ち勝っていく力が与えられ、義のために、正しいことを行う力が与えられていくのです。それは、キリストの十字架の故に罪が赦され癒されるからなのです。

「真理への道である方」を信じる

この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。使徒4:12

聖書は「天国というゴールに到達するための多くの道があるのではありません」と宣言します。天国への道は、罪を赦して下さるこの方を通してだけだと言うのです。ですから、この事が真実か偽りかをしっかりと調べて、本当であるならば、そこに賭けていくことが必要なのではないでしょうか。

神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
ヨハネ3:16-21

「御子を信じる」とは、“イエス様に頼る人”ということです。そのような人は一人として滅びることなく、永遠の命、すなわち天国の命を持つと語るのです。そして『罪人の私を助けてください』と正直に祈り申し上げるだけで救ってくださるのです。しかし、これを妨げるものがあります。それは私たちの「プライド」です。本当の自分を見てみれば、強くはなく、かえって、弱く寂しがり屋であり、孤独、悲しみばかりを感じる者ではないでしょうか。でもそういう自分を認められないのです。私たちを愛し救うためにこの世に来てくださったイエス・キリストは、十字架にかかり、私たちが払うべき罪の裁きを全部ご自身で受け切ってくださったのです。私たちは、自分の弱さは簡単には認めたくないものです。だから簡単には神様の所にも行きたくないし、祈りたくないと感じるのです。けれどもどんな姿であっても、そのままを神様に正直に申し上げることができると、不思議に心が楽なっていくのです。そして不思議に無理なく、この方に従っていきたいという気持ちが沸き起こってきます。これは新しい命、新しい力の現れなのです。自分で力を振り絞る必要はないのです。『神様、私を憐れんでください』と祈るだけで良いのです。神様の言葉を真実に受け入れ、それに従い始める時に、新しい力を与えられ、新しいいのちによって歩むことができるようにされていくのです。

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