聖書のいう『黄金律』とは
「黄金律」と呼ばれる言葉があります。黄金の法律という意味です。とても大事なことを「黄金」という言葉で表しています。
人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じようにしなさい。マタイ7:12
自分が本当にしてもらいたいと思うことを、誰かがしてくれたら嬉しいですよね。そういう人とであれば人間関係は上手くいくと思いませんか。また、人からしてもらいたくないことはしないということを実行していくなら、皆さんの周りにはとても良い関係が生まれてくるのではないかと思います。しかしここで大切なのは「人からしてもらいたいことは何か」ということです。何をして欲しいかは人により異なります。間違って押しつけたなら嫌なものになってしまいます。『人からしてもらいたいことは何か』ということを少し考えてみたいと思います。
米国の心理学者マズローが考案した「欲求の五段階」というものがあります。第一段階は『生理的欲求(食べる・飲む・眠るなど)』で、生きていく上で基本的かつ本能的に必要な欲求です。まずはこれを第一に求めます。第一段階がある程度満たされてくると、次の第二段階の『安心・安全の欲求』に入ってきます。食べ物の心配がなくなると、今度は「これで本当に大丈夫かな」と安心感を求めます。健康や先々のお金のこととかが心配になってきて、これらが満たされることを求めるわけです。この2つは初期の基本的な求めです。さらに第3段階は『社会的欲求』です。これは、自分はここに居て良いのだという所属感です。自分がどこに属しているのか、自分は本当にここに居て良いのだろうか、自分には本当にそういう価値があるのだろうかと悩むのです。そんな時に聖書は『わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い』(イザヤ43:4)と言っています。ここに私たちの本当の存在価値があります。多くの人は「お金を稼いでくるから」とか、「これだけ持っているから」、「これができるから私は生きる意味がある」と考えがちですが、それを失うとき、「私にはもう生きる意味がないではないか」と思い始めてしまうのです。そうではなく「私が生きているのは神様のご計画だ」と受け取るなら、お金が足りなくなろうが、何かができなくなろうが、それは関係なくなります。
一人のお祖母ちゃんが家に来て様々なことをして助けてくれていました。「いつもありがとうございます。本当に助かります」と言ってもお祖母ちゃんはあまり嬉しそうにはしてくれなかったそうです。ところがお孫さんが来て「お祖母ちゃんが居てくれて嬉しい」と言った時に、彼女の顔が本当に嬉しそうな表情になったのです。体が弱くなって何もできなくなったとしても「あなたの存在そのものが嬉しい」ということです。「私は偶然に生まれてきたのではない、私の存在には意味があり、価値がある」と考えられるようになって社会的欲求が満たされていくことが、私たちが安心して喜んで生きるためにとても大切です。
次の第4段階は「承認の欲求」です。分かりやすく言うと「認められたい、ほめられたい」ということです。私たちには価値を認めて欲しいという深い欲求があるのです。因みに第5段階は「自己実現の欲求」で、「自分自身が本当に価値がある」と言えるような欲求だそうです。
今日お話ししたいのは、第4段階の「承認の欲求」についてです。マタイ7章12節の『人からしてもらいたいことをする』とは、承認欲求に応えてあげることです。私たちは“満たす人”にならせて頂きたいと思うのです。「あなたが居てくれて嬉しい」これこそ周りの人が求めているのです。皆さんの口から、このような言葉が出ているでしょうか。却って「あれもしてくれない、これもしてくれない」と、不満や裁きの言葉が出ているのではいないでしょうか。
一人の息子さんのお話です。彼は高校に行かず暴走族に入り、警察沙汰にもなって手が付けられない状況になっていました。母親は絶望して自殺を考えていたそうです。たまたまカウンセラーと話す機会があり「息子さんのことをほめたことがありますか」と聞かれ、母親は「ああ、いつも叱るだけで息子をほめたことがなかった」と気づかされました。話を聞いた後すぐに子供の前に跪いて「お母さんは、お前のことを叱るばかりでほめたことがなかった。育て方を間違ってしまった。赦して欲しい」と謝ったそうです。すると、それまで「うるせい!だまれ!」と叫ぶばかりだった子供の口から「ごめん、ボクが悪かった」という言葉が出て来たのです。カウンセラーから「1日に1つ、息子さんをほめてあげなさい」と言われていたのですが、当時の息子さんの状況では、ほめるべき所なんかない訳です。お母さんは「ほめることのできる状況を作ってあげてほめればよい」と思ったそうです。たとえば「葉書を出してきて」とお願いして、やってくれたら「助かった。ありがとう」と言う。秘訣はこれだけです。ほめることを実行し始めてから息子さんの生活態度も心もどんどん変わっていきました。「ちょっとしたお使いもしてくれる、洗濯や部屋の片付けをし、近所の人たちに挨拶もできる優しい子になったのです」と、後日カウンセラーにお礼の葉書が届いたそうです。
私たちはどんな小さな事でもほめられたら嬉しいし、けなされたら嫌ですよね。自分がほめられて嬉しいのだったら、他の人にもそうしてあげようではありませんか。相手の良い所を見つけていく、それが大切ではないかと思います。
良いところに目を留めてみる
すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。ピリピ4:8
私たちはどうでしょうか。間違っていること、悪いことばかりに目をとめて「もっとこうしなさい、ああしなさい、これじゃだめだ、あれだめだ」と言っていないでしょうか。良い所がたくさんあるのに、そこに目をとめないで、悪い所やマイナスの面ばかりに目をとめていたらほめることはできません。悪い所はあるかもしれないけれども、良い所に目をとめる習慣を身に着けていく必要があります。私たちが他人を冷静に見られないのは、自分自身が目一杯になっているからです。ですから自分の思い煩いや苛立ちや悲しみや苦しみを、まずは神様に正直に申し上げる。「神様、もうこの人のことを耐えられません。受け入れられません。この人の何をほめたら良いのですか」と具体的に祈ることをお勧めしたいと思います。そうすると、「あれ?こんな良い所があるじゃない」と他人の良い所が見える余裕が出てきます。神様がいるかどうか分からないという方は、最初は「もし神様がいるとしたら」という思いで祈ってみたら良いでしょう。同時に、神様はあなたを愛しておられることを受け止めていくことも大切です。聖書には『わたしの目にはあなたは高価で尊い』と書いてあるのですが、これを受け取るとあなた自身も変わり始めるのです。
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしないさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯とし完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。コロサイ3:13-15
具体的には、互いに忍耐し合うこと。人から受けるプレッシャーやストレスはあります。そこに必要なのは忍耐です。忍耐とは「赦すこと」です。『主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい』とあります。神様は、「あなたがもう少し立派な人になったら、赦してあげる」とは言いませんでした。「あなたがもっと愛情深くなったらあなたを救ってあげよう」とも言いませんでした。そういうことが何一つできないのに、「あなたのために私は身代わりの十字架にかかるよ」と言ってくださいました。一方的な赦し、一方的な愛なのです。そのように赦しなさい、愛しなさいということです。イエス様が無代価・無条件で愛してくれたことを受け止め始めると、相手も赦そうという気持ちになってきます。この神の愛を体験する時に、私たちは黄金律を実行して生きることができるように変えられていくのです。