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心の傷の癒し

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傷を受けている私たち

皆さんは一年の始めに「今年はこんなことをしよう、今年はこうなりたい」というような目標を思い描いて歩み始めることが多いと思います。先ほど皆さんとご一緒に「私にいつでも笑顔を♪ あふれる感謝を♪ 赦せる心を♪ どんなときでも♪ どんな人にも与える愛をください♪」と歌いましたが、これも三日間ぐらい頑張れるかもしれませんが、それ以上は続かないというのが現実ではないでしょうか。良いと分かっているのなら継続すれば良いのに実際にはできない。そんな自分の現状をどうしたら改善できるのかを聖書を通してお話しさせて頂きたいと思います。

喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある。
箴言15:13

こうやりたい、ああなりたいとの願いはあっても、その良き事ができないのはなぜでしょうか。多くの理由があると思いますが、その理由の一つが、「打ちひしがれた霊」、すなわち「心が傷ついている」ために元気になれず、願っていることができない場合が多いのです。私たちは自分で気づいているか否かに関わらず、心の深み、「霊」において実は傷ついていることが多いのです。ここに傷がありますと、力が出なくてなかなか立ち上がれないのです。「分かっているけどできない。何をやっても私はだめだ。どうせ私なんか何もできないんだ。私は生きる意味や価値があるのだろうか。」と、そんなふうに考えたり劣等感に陥ったりすることがあるのではないでしょうか。実はそのような考えや思いは、多くの場合は間違った情報によって心が傷ついてしまっている結果なのです。例えば、小さい頃から「お前はダメだ」と言われ続けていると、「自分は本当にダメなんだ」と思い込むようになってしまうのです。そして更に、「どうせやってもダメに決まってる」としか考えられず、元気になれないわけです。私たちは間違った情報を心に刻み込まれてしまっているのです。それは親からかもしれませんし、メディアや著名人あるいは友人、また自分が尊敬する人からかもしれません。

また皆さんは、拒絶された経験がありますか。特に自分にとって大切だと思っている人から言われた言葉や行動で拒絶されると、心に深い傷となってしまっていることが多いのです。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べて、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
詩編139:23-24

神様は傷ついた私たちを放っておかれようとしているのではなく、そこから私たちを元気にさせて、立ち上がらせよう、回復させようとしてくださっているのです。私たちはそれらの傷から解放され元気になっていくことができるのです。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。ガラテヤ5:1

神様は、私たちが自由に喜んで生きることができるように、感謝して笑顔をもって歩めるようになって欲しいと願っておられます。なのにどうしてなれないのでしょう? それは私たちが罪の、あるいは悪い思い、悪い感情の奴隷とされてしまっているからなのです。しかし聖書には「わたしの目にあなたは高価で尊い」と書いてあるのです。あなたは自分が「高価で尊い存在」であると感じておられるでしょうか。もしそう思えていないなら、それは自分の中に傷ついた心があるため、神様が言われている言葉を、素直に受け取ることができなくなってしまっているからかもしれません。

しかし、彼(イエス・キリスト)は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。イザヤ53:5

ここに記されている「彼への懲らしめ」とはイエス様の十字架でのことです。聖書はその十字架ゆえに私たちがどんな時にも平安を持つことができると語るのです。愛の故に身代わりの十字架を受けてくださった神様のこと、イエス様のことを思う時、私たちの心は段々と癒されていき、喜んで感謝して笑顔で生きることができるようになれるのです。

しかしそのために必要な事があります。それは自分の傷に気づくことです。自分が気が付かないうちに受けて来た様々な心の傷に気づき始めることが、解放され立ち上がっていくために必要なのです。

例えば、子供を育てる時にすぐにイライラしたり、必要以上にガミガミ叱ってしまったという経験があるのではないでしょうか。あるいは、子供に言ってはならないと知っていながら、「役立たず」とか「何やっているの」とか様々なマイナスになる言葉を出してしまったこともあるのではないでしょうか。それらの言葉を何度も聞かされていると、子供の中にはそれが植え込まれて、自分はそういう人間だと思い込むようになってしまい、マイナスの思いが心を占めるようにさせてしまうのです。でもどうしてそんな育て方をしてしまうのでしょうか。それは自分もそのように育てられたからであることが多いのです。つまり、その事で心が傷ついているのです。私たちは心が癒されていないと、嫌だと思っていながら同じようなことをしてしまう弱さがあるのです。

「どうして私はここでこんなにイライラするのかな」「どうして私はここでパニックになるのかな」等考えると、皆さんの過去の傷と関係していることが多いと思います。心の中に「不安」と「恐れ」がある場合、それは心が傷ついているということを知らせる一つのしるしかもしれません。「あぁ、こういう事があるといつも私は不安になるなぁ、恐れがいっぱいになってくるなぁ」ということに気付き始めたなら、私たちに成すべきことがあります。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解と超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4:6-7

神からの癒しを受ける

それは傷ついたと思える事柄を神様に正直に申し上げることです。特に大切なのは、傷ついたその時の感情です。例えば、親から優しくされなかった、受け入れられなかったいうことで傷ついているかもしれません。「神様、私は親がもっと優しく受け入れてくれたらなぁと思ったんです。」「私が言ってもちっとも聞いてくれない親だったんです。だから私はいつも寂しかったんです。孤独だったんです。」など、正直な気持ちを神様に祈りとして吐き出すことがとても大切なのです。これは傷ついたところから出てくる膿みたいなものです。そういったものは早く出してしまった方が良いのです。秘訣は、どういう風に感じたか、どんなにそれが苦しく悲しいことだったか、どんなに辛いことだったかということを神様に正直に申し上げることです。その人を呪うような言葉さえ出てきてしまうかもしれません。あなたの悲しみ、痛みをぜひ神様の前に持ち出してみてください。神様はその時に少しずつ皆さんの心を癒し、自由にし「理解を超えた神の平安」で安らかにしてくださるのです。心の傷を放っておきますと、それが恨み・憎しみ・裁き・怒り・赦せない思い・敵対心のようなものに発展し、「傷の実・悪の実」を結ぶのです。特に拒絶や裏切られた経験があると、どうしても人間不信に陥ったり、反抗心が強くなってしまったりするのです。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:8-9

私たちは傷ついた気持ちだけでなく、傷の結果として生じる様々な罪・弱さも神様に正直に申し上げたいと思います。神様はキリストの十字架の故に全部赦し、きよめてくださいます。そして、私たちの心に神の平安が宿るようになるのです。私たちのうちに潜んでいる心の傷というものに神様の光を当てて頂いて、そこに癒しと解放を共に受けていくお互いとされていきたいと思います。

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