「幸せ」の条件とは?
皆さんにとって、幸せになる秘訣とは何だと思いますか。普通はお金があれば幸せ、地位も名誉も得られ、健康であれば幸せと思うのではないかと思います。しかし、本当にそれで幸せになれるのでしょうか。今日は幸せを得る秘訣ということを学ばせて頂きたいと思います。
わずかな物を持って主を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。箴言15:16-17
いくらお金があっても、争い合い、憎み合い、恨み合っていれば幸せにはなれません。私たちが互いを尊重し、愛し合うことができてこそ幸せな世界がやってくるのです。では、それが実際にできているかと言われると難しいのではないでしょうか。全てが順調の時にはそれなりに平和な関係を保つことができているかもしれませんが、辛く悲しい出来事や、苦しい事があると、怒りが爆発してしまうことも多いのではないでしょうか。状況や環境によって、あっという間に平和な時間は崩れてしまうのです。では互いに愛し合うと言っても、私たちは誰と愛し合うべきなのでしょうか? それは、隣人、特に自分の家族です。愛したい、優しく接したい、うまくやっていきたいと思う家族に対して、現実には「どうしていつもこんなことを!」「何度言ったらわかってくれるのかしら!」「これくらいやってくれたっていいのに!」と、不満やイライラが募ってくることが多いのではないでしょうか。他人に対しては感謝を表すことができても家族にはなかなかできないのです。実は、私たちが幸せになれない本当の理由は“心”にあるのです。“心”が本当に整っていたら、どんな状況の中でも喜び、感謝することができるようになれるのです。神様は私たちが幸せになって欲しいと思っておられます。しかし実際の私たちは、幸せになるべき人生を台無しにしてしまっていることが多いのです。
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。
ガラテヤ5:19-21
夫婦関係が壊れていく大きな原因は、淫らな行い、汚れ、好色ではないでしょうか。聖書では、ここに書かれていることを「罪」と言います。「罪」とは、警察に捕まるものだけではなく、心の中に出てくる恨み、妬みなど、自分ではどうすることもできなくなっているものも「罪」なのです。聖書で「罪」という言葉は『的外れ』という意味があります。私たちは互いに愛し合い、赦し合えばうまくいくのが分かっているのに、その良い事ができなくなっているのです。聖書ではその原因を、初めの人間であるアダムとエバが悪魔にそそのかされて神様に逆らってしまった結果、罪が入り込んだと記しています。私は生まれてから3歳まで言葉を発せず、初めて話した言葉が「バカ」だったそうです。兄弟が上に3人いて、そんな言葉をいつも聞いていたのでしょう。私たちは気づかないうちに周りの影響を受け、誰からも教わっていないのに、妬んだり、恨んだり、嘘をついたり、酷いことを考えたり思ったりするのです。私たちは生まれながらに罪に支配される者となってしまっているのです。
私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。ローマ7:15
私たちは、つい言ってはいけないことを言い、やってはいけないことをやってしまう。妬み、嫉妬、怒り、憎しみ、裁き・・・自分で自分自身の心をコントロールできず、逆に罪にコントロールされてしまっているという現実があるのです。
愛の関係の中で「幸せ」が生まれる
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリス・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。ローマ3:23-24
ここに「すべての人は」と書かれています。例外なく一人残らず、罪に支配される者となっているということです。大事なのは、私たちも自分で正しくコントロールできない罪人であることを認めることです。「確かに私にも弱いところがある。間違ったり、失敗することがある」と認めることから新しい人間関係、愛し合う関係が起こされてくるのです。では、愛とは何でしょうか。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。Ⅰコリント13:4-8
私たちを幸せにし、人間関係を本当に良いものとする秘訣は、「愛し合うこと」です。ここに出てくる“愛”は「アガペー」という言葉で、「本物の愛」、「神様の愛」のことです。具体的には、第一は「寛容」です。人の失敗や過ちを責め立てるのではなく、赦し受け止めること。次に「親切」。自分に親切にしてくれる人に親切にすることは容易いですが、私たちに酷いことをする人にも親切にすることは難しいことです。愛は「ねたまない」「自慢しない」「高慢にならない」「礼儀に反することをしない」「自分の利益をもとめない」「苛立たない」「人がした悪を覚えない」「耐え忍ぶ」・・・愛とは裏腹な自分の姿に驚くのではないでしょうか。しかしこの「愛」の言葉の代わりに、『イエス・キリスト』という名前を入れてみるとぴったりします。私たちは罪にコントロールされて「愛」という生き方ができなくなっているのだと気づかされる時、キリストに在る新しい生き方に向かって歩み始めることができるのです。
もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:8-9
神様は「罪だ、罪だ」と、あなたを責め立てておられるのではなく、「罪を認めます。だから助けてください」と祈れるように、手を差し伸べておられるのです。「私には愛することも、赦すこともできません。恨み、憎しみがあります」と正直に認めて、そのことを告白するなら神様はそれを赦しきよめてくださいます。神様の前に赦されない罪は1つもありません。ただ必要なのは「私はそういう人間です」と正直に認めることなのです。そして赦すだけではなく、そこからきよめてくださるというのです。ですから私たちは立ち直っていくことができるのです。神様は、あたかも汚れたことが一度もなかったかのように見なしてくださるというのです。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたし(イエス・キリスト)のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。マタイ11:28-30
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。ガラテヤ5:1
罪のコントロール下に置かれて、自分ではどうしようもないことに気づく時に、私たちは「イエス様、助けてください」という正直な気持ちが出てくるのです。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と語ってくださる方のところに行き、全てをお任せ致しましょう。イエス様は私たちに自由を得させようとしてくださっているのです。私たちは人の目だとか、あるいは自分の罪だとか、どうしようもない苛立ちの感情だとか、様々なものの奴隷、支配下に置かれてしまっています。そこから私たちを解放するためにイエス様はこの世に来てくださいました。私たちはイエス様に「愛せるようにしてください、赦せるようにしてください」とお願いすれば良いのです。そうすると本当にイエス様が私たちを解放してくださる経験をすることでしょう。この恵みを共に味わって頂けたらと思います。