梅雨に入りました。この時期は体調を壊す方が多くいらっしゃいます。アンケートでは約75%の人は、梅雨は好きではないと答えるそうです。理由としては「憂鬱になる」「体の調子が悪くなる」などですが、そうなってしまうと私たちはストレスが溜まってきて、些細なことでもイライラしがちになります。普段なら何でもない言葉や態度にイライラして怒ってしまい、余計なことを言ったりやったりしてしまうのです。そんな時にはどうしたらよいかを御言葉から学んでいきたいと思います。
激しやすい者は口論を引き起こし、怒りを遅くする者は争い事を鎮める。箴言15:18
怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は待ちを攻め取る者にまさる。箴言16:32
些細なことでも強く言われると、イライラし口論になって問題が起きることがあります。怒りを遅くする忍耐深い人は争いを静め、自分の心を治める者こそ本当に素晴らしいのだというのです。ある意味、納得はできるのですが、「あなたはそうなっていますか」と言われると、「分かっているけれどできない」というのが私たち本当の気持ちではないでしょうか。
同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな灯が、あのように大きな森を燃やします。舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。ヤコブ3:5-8
普段は優しく良い言葉を語る人も、悪い心、怒りを持っている時には、鋭い刃物のような言葉が口から出てくることがあるのではないでしょうか。結果として取り返しのつかない事態を招くこともあるわけです。これは舌の機能の問題ではなくて、私たちの心の問題です。私たちの心が正しく治められていないから、言わなくて良いことを言ってしまい、言うべきことが言えなくなって、良い人間関係を台無しにしてしまうことがあるのです。
私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。ローマ7:5
私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。ローマ7:18-21
私たちが直面する様々な場面で、ここで「ごめんなさい」の一言が出たら何にも問題はないのに、それがどうしても言えない。もしこれができたら人間関係のトラブルなどほとんど消えるという場面もあるでしょう。心では「これはしてはいけない」と思っているのに、それをやっているのです。私たちは多くの場合、自分で良い事と悪い事が分かっているのに、その良い事ができない。心が追いついていかないのです。私たちはこれらに対してどのように対処していくことができるでしょうか。
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。ローマ7:24-25
解決方法は、第一に自分自身の現実を知ることです。「自分はまだまだ大丈夫、頑張ればできる。たまたまそうなってしまっただけだ。」と思っているうちは、ずっと混乱が続くと思います。ある意味で自分に諦める。自分の力ではどうにもならないと弱さを認める人には、間もなくそこに解放が起きていくのです。まだ頑張れば何とかできると思い、やるたびごとに失敗して本当にもうダメだという状況になってはじめて、神様に委ねる状態になり、神様の力が働き始めるのです。私たちは自分の惨めさや愚かさ、汚さが分かるとがっかりするかもしれませんが、「本当に自分は惨めな人間だ!」と思えたら、実は幸いなのです。「だれが私を救い出してくれるのでしょうか」と言っているこの人は、もはや自分には期待しようとしていません。「本当に自分は惨めでどうにもできないが、このような私のためにイエス・キリストが来てくださった」ということが明確になるからなのです。絶望の中でも希望が現れ始め、何とかなるのかもしれないと思えるようになるのです。しかし、まだ道半ばです。相変わらず惨めなこと、愚かなことをしてしまうのは変わらないので、この段階ではまだ解放されていません。しかし皆さんに知って頂きたいのは次の御言葉です。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。ローマ8:1
「私のためにイエス・キリストが十字架に掛かって救い主となってくださった」と信じる者は、決して罪に定められることはないと言うのです。相変わらず悪いことをしたり、その悪い習慣からも抜け出せておらず、醜い心、汚い心のままなの私なのですが、それでもイエス様がこの私のために十字架にかかり苦しみを受けてくださったと信じているなら、“あなたを決して罪に定めない”。これが神様の宣言であり、約束です。私の罪がイエス様の十字架の上で赦され、解決されたと信じ受け取る。「こんな私のために十字架に掛かってくださったんですね、感謝します」これで十分なのです。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。ローマ8:2
私たちは気が付くと自然に人の悪口を言ったり、意地悪な気持ちになったり、悪い心になったりします。「どうして私はこんな風にしか考えられないのだろう、どうしてもっと優しい、もっと素敵な考え方ができないのだろうか」と思うことがあるかもしれません。しかし、神の力がそこからあなたを解放する、私たちを救い出してくださると言うのです。皆さんが素直な気持ちでこのイエス・キリストの御業を受け取っていく時に、イライラが静まってきたり、不安な気持ちが落ち着いて穏やかになってきたという経験をし始めるのです。
私たちは、生まれながら自己中心に生きてきました。それは、実は神を認めない心なのです。この心が私たちを苦しめているのです。自己中心を別の言い方で言うと、自分を神にしているということです。神様より自分の考えの方が優れているし、もっと素晴らしいと思う。だから自分の思い通りになっている時は穏やかな気持ちでも、思い通りにならないとイライラするのです。「これしかダメ、これ以外はおかしい」という狭い考え方が私たち自身を苦しめていることが多いのです。でも自分の思い通りにならない辛く悲しい出来事が、実はとても大切な経験であったということもあるのです。
詩画家の星野富弘さんは、学校でマット運動をした時に脊椎を損傷し、それ以後、手足も動かなくなってしまいました。自分の人生を恨むわけです。悔しくて世話をしてくれる母親に唾を吐きかけたこともありました。けれどもその唾が自分に落ちてきて人生の不条理を思ったそうです。そんな彼が、永遠の神を知った時に、心が本当に穏やかになり、口に絵筆をくわえて詩画を生み出し、どれだけ多くの人が励まされているか分かりません。自分の狭い考え方、自分を神とする考え方から離れて、共に歩んでくださる神様を見上げ始める時に、私たちの人生は新しくなっていくのです。
「神様、私の心は乱れてます。私の心は苛立っています。私の心は悲しみでいっぱいです。私の心の真ん中にイエス様、来てください。今、私は心の戸を開きます。」これだけでよいのです。気がつくと新しい力と希望、勇気があなたの心にも湧き始めて、以前とは違う生き方ができるようになることでしょう。心を開いてイエス様を是非お迎えして頂けたらと願っています。