礼拝/祈り会のライブ中継ページはこちらから

永遠の命

この記事は約6分で読めます。

永遠の命(救い)を得るために

皆さんは死んだらどうなると考えていますか。「死んだらすべては無になる」と考える方は多いと思います。反対に「輪廻転生して、いろんなものに生まれ変わる」と考える人もいるでしょう。また、ある人は「天国に行く」と考えるかもしれません。
最近の「量子力学(物理学)」の研究から、おそらく人間は死んで終わりではないだろうということが証明されつつあるようです。地上で私たちの命があるように、死後に別の命があり、おそらく意識なるものがあるのではないかと言われ始めているのです。聖書は、死んでも死なない命、永遠の命があると言っています。科学の世界が聖書に近づいてきているということも言えるかと思います。
聖書が語る「永遠の命」は、現在私たちが経験している命とは質も内容も全く異なった素晴らしいものなのです。もし永遠の命が与えられていると確信できるなら、余計な不安や恐れが消えていくことは間違いありません。死の先に更にもっと素晴らしい命が備えられていると知るならば、きっと今苦しみや困難があったとしても、何とかそれを乗り越えていこうとする力が湧いてくることでしょう。
では、その永遠の命を得るためにはどうしたらよいのでしょうか。聖書に、この事についてイエス様に尋ねに来た人の話が載っています。

イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」その人はイエスに行った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。                                                     マタイ10:17-20

彼は何をしたら永遠の命を持つことができるのか、その答えを求めていました。彼はまじめに旧約聖書の中に書いてある戒めを守っていたのでしょう。彼はそれなら日々行っていると言えたのです。それでも彼は自分が永遠の命を持っているか不安だったのです。真面目に一生懸命に良い事を行っていたのですが、まだ何か足りないものがあると感じて、イエス様に尋ねて来たのです。

イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたには欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。                                                      マタイ10:21-22

「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい」と言われて「はい、わかりました。すぐにそうします。」と答えられる人はいるでしょうか。私なら「ちょっと待ってください。そんなことできません。無理です。」と答えざるを得ません。ところがイエス様はこの青年に、“永遠の命を持つ(救われる)ための要件は、自分の正しさや頑張りではない”ことに気づかせようとされたのだと思います。実は、私たちが“救い”を受け取るためには「自分の力では神に本当に従うことはできない、救われるような歩みはできない」と気づくことが必要なのです。そうなる時「こんな私を憐れんでください、救ってください」とへりくだって神様に祈ることができるようになるのです。私たちはプライドの故になかなか「自分にはできない」という弱さを認めることができません。自分はもっと立派でありたい、もっと頑張れるのだと考えてしまうのです。しかし、このことこそが、私たちを神様から遠く離してしまっている原因なのです。

自分の弱さを認める

旧約聖書の中に「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という命令が記されています。この金持ちの青年は、隣人に優しくして、そういうことを行ってきたと自負していたと思います。ですからそれが本物だったら自分の持っている物を全部売り払って、貧しい人たちに分け与えることもできたはずです。しかし彼にはできませんでした。「私にはそこまで犠牲を払う愛はない」という自分の限界を認めることができなかったのです。イエス様は彼に「あなたは自分で戒めを守っている、正しいことを行っていると思ってきたかもしれないが、神の前には不十分です。それはあなた自身にはできないことなのです。」と言おうとされたのです。

弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」マタイ10:26-27

永遠の命に与かるために必要なことは、自分の力では正しく歩むことができないことを認め、神様を見上げて「助けて下さい」と素直に求めることなのです。つまり「神の恵みと憐れみに頼りなさい」とイエス様は語りかけてくださっているのです。

実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。敵であった私たちが、御子(キリスト)の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそうの確かなことです。                        ローマ5:6-10

キリストは正しい人を救うために来られたのではありません。「自分ではどうすることもできない、私の心は醜く、私の罪は深いのです」と告白する者、不敬虔な罪人が救われるために十字架で死なれたのです。その身代わりの死によって、その人の罪が赦され、聖められるのです。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:8-9

私たちは自分の弱さ、罪や過ち、愚かさをなかなか認めたがらないのです、それを赦し聖めるために十字架があったことを知る時、罪責感から解放され始めるのです。罪責感が無くなれば、私たちは大胆に神様に近づいて祈ることができるようになり、神様からの応えを期待することができるようになります。
私達は、あの金持ちの青年のように自分で頑張って立派な事を行おうとするのではなく「神様、助けて下さい、こんな愚かな私を憐れんで下さい」と、神の恵みと憐れみにすがり始める時に、不思議と自分の力では到底できなかった事が段々とできるようになるのを実感するでしょう。ある方の「悔しいけど優しくしちゃうのよね!」という言葉が印象に残っています。色々な事があって、その人の事は赦したくないし優しくしたくもないのに、気がつくと優しくしてしまうというのです。私たちが神様にあって歩もうとする時、いつのまにか愛と赦し、優しさが自然に現れてくるのです。これが“人にはできないが、神にはどんなことでもできる”という生き方なのです。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ41:10

そのような生き方は、神様が守ってくださる生き方でもあります。自分で自分を守る生き方ではありません。私たちが自分の力で「ああ、どうしよう、どうしよう」と思い煩い、不安の中で苦しむ生き方から「神様がいるから大丈夫、神様がきっと良くしてくださる」という平安の中に生きられるようになるのです。これが神様が私たちの味方だという生き方なのです。ぜひ、そのような安心感のある生き方を歩んで頂ければと願っています。

タイトルとURLをコピーしました