人は皆平和を求めています。しかし、世界各地で戦争が起きています。なぜ戦争は止まないのでしょうか。戦争で金儲けを考えている人もいますが、ほとんどの人は平和を願っています。しかし平和にならず、ますますエスカレートしています。
振り返ってみると、私たちは平和を語り戦争反対と叫びますが、私たち自身も様々な戦いをしているのではないでしょうか。自分の家族や親族に対して、また知人や友人に対して、上司や部下に対して取っている態度を考えると、そこに小さな「戦争」があるかもしれません。
世界の平和を望むと共に、私たちは自分自身の中に潜んでいる戦いにも目を向けていく必要があるのではないでしょうか。
平和をつくり出す者
悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。(Ⅰペテロ3:11-12)
平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(ローマ16:20)
私たちは、どのようにして平和をつくり出す者となることができるのでしょうか。聖書が教えている、最も大切な戒めの一つは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めです。もしこれができていたら争いや戦争は消えていき、そこに平和が生み出されていくでしょう。私たちが、争いや戦争というサタン・悪魔のしわざを打ち壊し、平和をつくり上げるために必要なのは「愛」なのです。たった一人が愛を表しても平和にはならないと思うかもしれませんが、千里の道も一歩からです。あるグループの中に、本当に謙遜で優しい人が一人でも入ってくると雰囲気が変わり始めます。
アウシュビッツ収容所では、怒号が渦巻いていました。そんな中で、神様を信じていたコーリー・テン・ブームという女性が『ここはあなた(神様)に相応しくありません。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ』という「主の祈り」をし続けた時に、不思議に優しい言葉が行き交うようになっていったと言うのです。地獄かと思われるような場所の雰囲気が変わり始めたのです。
たった一人でも愛の心を持った人がそこにいるならば、それだけで雰囲気が変わり始めるということです。隣人を自分と同じように愛することが本当に拡大していったならば民族の平和にも繋がっていくはずではないでしょうか。
でも苦手な“あの人”を自分と同じように愛せるかと考えると、「愛したいと思うけど愛せない」というのが正直な気持ちではないでしょうか。なぜでしょうか?
実は、隣人を自分自身のように愛する前に、まず『自分を愛する』ことが必要だからです。これは自分を甘やかすというのではなく『自分を大切にする』という意味なのです。
私たちは本当の意味で自分を大切にしているかと言いますと、「自分なんかダメだ」とか「こんな私なんか生まれてこない方がよかった」などと言って、自分をいじめ、傷つけていることが多いのではないでしょうか。他人に優しくできない大きな原因の1つは「自分に対して優しく」できないからなのです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
神様はあなたに対して、「あなたは、わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言ってくださっているのです。ではあなたは自分のことを高価で尊いと認めておられますか? そう思っていらっしゃいますか? 頭が良いとか能力があるとか、お金があるとか、地位や名誉があるとか、そんな事で自分を評価し、また他人を評価しているのではないでしょうか。
「自分という存在がなくてはならない大切な存在なのだ」と思えるか否かということです。もしそう思えるなら、隣人に対しても同じように考えることができるのです。聖書には「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」と書かれています。
わかりやすく言うと、全世界、地球上にあるすべてのものを合わせたものよりも、あなた一人の方がもっと大切だというのです。
私たちは自分を正しく受け止めることができていない結果として、隣人のことも正しく受け止めることができず、そこから敵意や争い、妬み嫉妬、裁きや憎しみが生じてくるのです。それが高じたものが戦争なのではないでしょうか。
ですから私たちができる、戦争を防ぐための第一歩は、まず自分自身が家族と和らぐこと、友達あるいは上司や部下と和らぐことなのです。そのために必要なことは、「自分も大切な存在なのだ」ということを本当の意味で受け止めることなのです。
互いに愛し合うために
聖書では、人間は「神のかたち」に創造されたと書いてあります。神様の愛の対象として創造されたのです。皆さんも、誰かと心と心が通じて分かり合えて嬉しかったという経験があるのではないかと思います。実は私たちは神様ともそのような関係に入ることができるのです。神様がどれほど私たちのことを愛しておられるか、次のみ言葉を読んでみましょう。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
神様はご自分の御子イエス・キリストを何のためにこの世に送って下さったのでしょうか。それは私たちの罪を解決し、私たちが罪から聖められるためです。その解決のためにご自分の一人子を私たちの罪の身代わりとし、その刑罰を受けさせたということです。自分の一番大切な一人子をも犠牲にするほどに、神様はあなたを愛されたのです。この愛を信じ、受け止め始めるならば、あなたの内にも変化が起こり始めます。
周りの人に対して優しい言葉が自然に出るようになり、優しい行動ができるようになるのです。私たちの内側から周りの人を愛する心が湧き出てくるのです。問題は、本気になって神が現わして下さった愛の事実、身代わりの十字架と復活を信じ受け止めるかどうかなのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)
繰り返しになりますが、私たちの中から争いや戦いが減っていく秘訣は「神がまず私たちを愛してくださった」ことを信じ受け止めることだということを忘れないでください。私たちは何とかして自分の内から愛を生み出そうとしたり、内側から愛を引っ張り出そうとしますが、これは間違いです。本当に愛されていることがわかると、その人の中から愛が出てくるようになるのです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの捧げ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。(Ⅰヨハネ4:9-11)
神様がまずあなたを愛し、犠牲を払ってくださった。この事実が分かると、あなたも隣人を愛して不思議に優しい言葉が出始め、親切にすることができ始めるのです。こうして少しずつ裁く者、敵対する者から愛する者に変えられていくことを実感し始めます。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
キリストを信じるなら、あなたも新しく造られ、新しい生き方ができるのです。「戦争反対」ということは決して悪いことではありません。しかしまず私たちの近くにいる“あの人”、“この人”を赦すこと、愛することから始まるのです。その力は私たちの内にはありません。でも「こんな私のために十字架にかかってくださり、ありがとうございます。でも私にはできませんから、あなたにお委ねします」と祈る時、神様はきっとあなたの内にも新しい人生を始めてくださることでしょう。