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美しく老いを迎えるために

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あなたはご自分が何歳ぐらいだと感じておられますか。私も白髪頭になりしわが増え、鏡を見ると「確かに年を取ったなあ」と思うのですが、実は心の気持ちとしては40代か50代位かなと感じています。でも現実には、あちらが痛い、こちらも痛い…。以前は、簡単にできたことも「よいしょ」と声をあげなければできなくなってきて、確かに年を取ってきているとも感じているのです。今日は、誰もが迎える老年をどのように迎えるかということについてご一緒に学んでみたいと思います。

最上のわざ

『最上のわざ』

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうな時に希望し、従順に平静に、おのれの十字架を担う。
若者が元気一杯で歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は、神の賜物。古びた心にこれで最後の磨きをかける。
誠の故郷に行くために己をこの世につなぐ鎖を少しずつ外してゆくのはまことにえらい仕事。
こうして、何もできなくなればそれを謙虚に承諾するのだ。
神は最後に、一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。
手は何も出来ないけれども最後まで合掌できる。愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために。すべてを成し終えたら臨終の床に、神の声を聞くだろう。
『来たれ我が友よ。我汝を見捨てじ。』と。(へルマン・ホイヴェルス著『人生の秋に』より)

素敵な詩です。私たちもこのような生き方を目指したいと思うのですが、ではどうやったら、
このような美しい老いを迎えることができるのでしょうか?

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)

これはパウロという人が語った言葉です。年齢を重ねると「あちこち痛い、あれもできない、これもできない」と、本当に失望落胆の連続になることも多いかと思いますが、聖書は「落胆しません」と言い切っています。それは「外なる人」、身体とか表面的な「外なる私」は衰えていくとしても「内なる人」つまり神を認める真実な心は、日々新たにされているというのです。もし私たちが本当に神様と出会い、神様と共に歩むことができるなら、私たちの心は日々元気になっていくことができるというのです。すなわち、たとえ身体があちこち弱っていっても、心が豊かに成長していけるということです。私たちは死ぬまで成長し続けることができるのです。これが聖書の約束です。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。(伝道者12:1、13~14)

この「若い日」というのは「今までの私たちの歩み」と考えてくだされば良いでしょう。私たちは富や快楽、名誉や地位といった地上での幸せを求めようとしていますが、もっと素晴らしい“永遠の命”が天国に用意されていると聖書は教えているのです。もしこの事実を受け止めることができるのであれば、死ぬのは悪いことではないと思えるのではないでしょうか。そして私たちは希望を持って“その日”を迎えることができるようになるのです。

その方法は、「あなたの創造者を覚えよ」「神を恐れよ」「神の命令を守れ」です。天地を造られただけではなく、あなたをも造られた神様がおられることを認めるか、否かがあなたの人生の大きな違いとなるのです。神様を認めることができるなら、いざという時にも、助けを求めることができるようになるでしょうし、神様の守りや恵み、慈しみを期待することもできるでしょう。しかし、私たちを守ってくださる神を認めることができないなら、何でも自分で行わなければならないでしょうし、死んで後、自分がどこに行くのかも分からなくて不安にもなるでしょう。創造者を認めるか否かで、生き方や価値観にまで大変大きな違いとなるのです。では、「神の命令を守れ」とは何を意味しているのでしょうか。

互いに愛し合う

イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37~40)

「律法と預言者」というのは、聖書のことです。聖書が言っていることはこの2つの戒めにまとめられるのです。すなわち、神の命令とは、第1に「神を愛すること」です。そのためには、まず神を認めることです。第2に「隣人を自分のように愛すること」です。実は私たちにはこれができないのです。私たちの中に自己中心という罪が入って来てしまったため、最終的には自分にとって損か、得かでしか物事を考えることができなくなっているのです。この自己中心という罪のためにイエス・キリストが十字架で私たちの身代わりとして死んでくださったことにより、この方を信じる時に、罪赦され、力が与えられ、隣人に対して少しずつ優しくなっていくことができるのです。

神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
(Ⅰヨハネ5:3)

わたし(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあうこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ15:12)

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。
(Ⅰヨハネ4:10)

私たちが隣人を愛せないのは、実は自分が愛されていることを受け取っていないからではないでしょうか。弱いダメな私をも神様は赦し、そのままで愛してくださる。それが十字架の愛です。この神様の愛と赦しを受け取る時に、優しい謙遜な思いが内側から、すなわち聖霊様から出てくるのです。これが“永遠の命”なのです。そしてイエス・キリストを信じる時に天の御国に行ける大きな希望に包まれることができるようになるのです。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:9

「神は最後に一番良い仕事を残してくださる。それは祈りである」と『最上のわざ』には書いてあります。もしあなたが過去に行った様々な事柄について罪責感を持っているなら、それらが皆さんの人生を暗くします。聖書は自分の罪を「告白」するなら、即ち「認める」なら神様はきよめてくださると宣言しておられます。誤魔化そうとするのではなく、自分の正直な思いを全部神様に申し上げていく時に、平安を与えてくださるというのです。神様はあなたの祈りを聞いてくださり、答えてくださるようになり、楽しい心で年齢を重ねていく人生を歩んで行くことができるようになるのです。

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