礼拝/祈り会のライブ中継ページはこちらから

平和をつくり出す道

この記事は約6分で読めます。

migration, integration, migrants

今も相変わらずロシアとウクライナ、中東での戦争が続いています。一方で、私達の家庭の中でも醜い言い争いが起こっています。私達は、平和や幸せを願っているのに、現実には全く反対のことを行っているのです。ではどうしたら本当の平和に近づけるのかを聖書から見ていきたいと思います。

争いの原因

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出てくるのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出てくるのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。                          ヤコブ4:1-3

争いは「あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来る」と聖書は言うのです。言い換えるなら「誰が一番か」「どちらが上か」「どちらが勝ちか」という世界で生きているから戦いがあるのだというのです。私達の中には無意識に「競争する心」「戦う心」すなわち、いつも自分を上にしようとする傲慢さがあるのです。ですから、私達が気づかないうちに争いや戦いの心が入り込んでくるのです。「相手が悪い、相手が間違っている」と思っているから攻撃するわけです。そして求めたものが手に入らないと戦い、時には殺人まで犯してしまうと聖書は言っているのです。ですから私達の中の「欲望」が争いを引き起こす原因なのだと聖書は語るのです。そしてそれは、求めるべき方、すなわち神様に求めないところから来ているのだというのです。
多くの争いは、必要以上に人に求めることが原因なのです。例えば、私達は弱さを持っている人に完璧さを強く求めていませんか。夫婦でも、親子でも、互いに弱さを持っていることを知りながら、弱さを補い合うのではなく「せめてこれくらいは!」と求めてしまうのです。そして良かった事は感謝もせず、それを当たり前であるかのように考え、悪い面があると責めてしまうことがあるのです。こうなれば争いが出てくるのは必定です。それは人に求めるのではなく、神に求めるべきことなのです。人に対しては、「弱さだから」と、受け止めることが大切なのです。そこに良き人間関係が生まれる土台が現れてきます。しかしそればかりですと、今度は自分にストレスが溜まり過ぎてしまいます。

神に願い求める

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。マタイ7:7-10

『天におられるあなたがたの父』とは、神様のことです。「自分のものにならないのは、あなたがたが神に願わないからだ」と聖書は語ります。皆さんは、神様に真剣に祈り求めたことはあるでしょうか。神様は、私達が求める前から、その願いをご存じですが、「わたしに求めなさい」と言ってくださる方なのです。どんな事でもいいですから、正直に自分の本当の願いを神様に申し上げることをお勧めしたいと思います。この聖書のもともとの言葉は「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「叩き続けなさい」となっています。でも祈っても応えられない経験があると、失望してしまい、神様から遠ざかり、祈りをやめてしまいます。しかし応えてもらえないのは、理由があるのです。第1は「あなたがたが願い求めないから」とあります。私達はすぐ諦めてしまうのです。何度でも、諦めないで、しつこく祈り続けていく必要があるのです。第2には「自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるから」なのです。もし動機が悪ければ神様は応えないかもしれません。心を探ってみますと、私達の中には醜い動機が潜んでいる事がしばしばです。結局は自分がほめられる為、自分が認められる為、自分が楽をする為と、自己中心な動機が根底にあるのです。それ故に、動機が聖められるまで、神様が祈りの応答を留めている事はあり得る事なのです。「あの人が幸せになるように」「この事がもっと上手くいくように」と、本当に良き真実な心、親切な心、誠実な心で求めるならば、神様は喜んで応えてくださるのです。私達は純粋な、愛の心で求めていく者とならせて頂きたいものです。胸に手を当てて良い動機か、悪い動機かを祈り、考えてみる必要があるかもしれません。そしてもし悪い動機だと気が付いたならば、すぐにその悪い心を正直に告白し、良い動機に変えられていきたいものです。

自分の罪を認める

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。ヤコブ4:8-10

神様の祈りの応えを体験するために必要なのは、まず神に近づくこと。それは祈りです。「神様、あなたが分かりません。あなたのことがもっとよく分かるようにしてください」「私がもっと良い人間になれますように、私のこの自分勝手な気持ちを変えてください」と祈るのです。困った問題が起こったら、「神様、助けてください。どうしたらよいでしょうか。私にはどうしようもありません」このように自分の心の願いを神様に申し上げることを普段の生活の中に取り入れてください。そうすると、神様があなたに近づいてくださるのです。神様との交わりを大切にして、その上で「手と心をきよめなさい」と聖書は語ります。では、どうすれば清くなるのでしょうか。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:8-9

自分の罪を「告白する」というのは、自分の罪を「認める」という意味です。「私には醜い自分勝手な心があります」「私は妬みました」「私はあの人を蔑んでいます」など、自分の罪の姿、醜い本当の姿を「その通りです」と神様の前で認めることです。そうするなら、神様は「真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。これが聖書の約束なのです。ところがこの罪を認めることを妨げるのが私達の「プライド」なのです。自分を低くできないのです。そして「悪いのはあの人の方だ」と“争う心”がムクムクと出て来るのです。神様の目から見たら、私達は自分勝手で、意地悪で、愛のない者なのです。どちらが良いか悪いかではなく、まず自分が神様の前に正直に自分のあやまちを認めて「私にはそういう心があります」と告白することが大切なのです。その時、神様は、キリストの十字架のゆえに、私達をすべての悪からきよめて解放してくださり、新しい生き方ができる力を与えてくださるのです。そして神様との交わりを通して、少しずつ心の平安を経験するようになって、心が穏やかになり、あなたは不思議に優しい心の人に変わっていくのです。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」と言ってくださいました。「平和をつくる」とはどういうことかと申しますと、他人の痛みや苦しみ・困難を裁かずに、そのまま受け止め、優しく包むことです。そこに平和が訪れるということです。穏やかな心は、厳しく傷つける言葉を消し去っていくのです。それは自分自身も赦されている、受け入れられているという平安から出て来る力なのです。「私にもこの人を赦す力をください。この人を愛する力をください」と祈り求める心から、それは生まれてきます。神様に祈り求めなくさせている根源は、自分を神とする心の傲慢さです。それを正直に認め告白する時に、神様の恵みが豊かに注がれるようになり、まず自分の心が穏やかになり、隣人との間に平和をつくり出す者とされていけるのです。

タイトルとURLをコピーしました