「あなたにとって『幸せ』とは何ですか」と聞かれたら、皆さんならどう答えられるでしょうか。お金や地位や名声が幸せの基だと考える人がいるかもしれません。いや健康こそが幸せの根源だと考える人もいるでしょう。しかし「これさえあれば幸せだ」と思っていても、実際にそれを得た時には、「虚しい」と感じる人が多いのも事実のようです。では本当の『幸せ』とは何なのでしょうか、どうしたらそれを手に入れることができるのかを聖書を通して分かち合ってみたいと思います。
幸せの秘訣
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ4:11-13)
これを書いたのはパウロという人物です。彼はどんな境遇にあっても満ち足りることを学んだと記しています。すなわち、環境や状況に左右されず、本当の満足、幸せを得ることができると言っているのです。「私を強くしてくださる方」とは誰のことでしょうか。それは天と地を、そして私たちを造られた神様のことです。神様は私たちを強くしてくださることができる方、どんな境遇の中でも満ち足りる心を持つことができるようにしてくださる方なのです。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ5:3)
「心が貧しい」なんて情けないなあと思いませんか。私たちは心が豊かになりたくて教会に来たり、あるいは、様々な講演会に行って教えを受けたりするわけです。ところが聖書は真逆のことを言っています。ここでいう「貧しい」という言葉は、赤貧洗うが如し、もう何もない極度の貧しさを意味する言葉です。要するに「自分の中には良いものや価値あるものは何もない」と、そう思える人は幸いだというのです。なぜそう言えるのでしょうか。それは心の貧しい人は、自分の弱さを素直に認め、神様に頼ることができるからです。私たちは心の中では「自分にもそれなりの力がある。機会さえあれば、それを現わせる」と思っていることが多いと思います。実は、神様に頼ろうとしない、この高ぶりが私たちを満ち足りた思いから遠ざけてしまっていることが多いのです。ですから、まず第一に自分の心に高ぶりがある、傲慢であることに気づくことが、私たちがあらゆる境遇の中でも満ち足りる生き方ができるための秘訣なのです。そしてここで言う「天の御国」とは、喜びや楽しさ、嬉しさ、私たちが経験してきた、そういうものを全部含めたよりも偉大なものと考えて良いのです。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。(マタイ5:4)
「悲しむ者は幸いです」これもおかしな話です。普通、悲しむのは不幸だと思いませんか? 聖書はそれが幸いだというのです。たとえば、自分がとんでもないしくじりをして「ああ、なぜ私はこんなバカなことをしてしまったんだ」と悲しむ時、その事を通して心が謙遜にされ「神様、助けてください。こんな私をあわれんでください」と祈り求めることができるのであれば、それは幸いであると! これこそが、実に私たちが本当の意味で満足する、満ち足りる心を生み出さて頂く秘訣なのです。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)
この言葉は「疲れた人、重荷を負っている人」に対する呼びかけです。たとえば、会社の人材募集などで「疲れた人、弱った人は来てください」と呼びかけるでしょうか。これもおかしな話ですね。でも聖書はそう言っているのです。すなわち「自分は大丈夫だ、自分で何とかする」と思っているうちは神様に助けを求めることはできないということです。間違ったプライドを捨てて、「自分には本当に助けが必要だ」と素直に認めることができる人は幸いなのです。「疲れた、もうどうにもならない。誰かに助けてもらいたい」と思えるなら、あなたはもう神様の救いのすぐそばにいるのです。
「わたしのもとに来なさい」と呼びかけている「わたし」とは誰のことでしようか。それはイエス・キリストです。私たちは「自分で何とかしなくては」と、自分の力に頼って、あれこれ心配してしまうのですが、イエス様はその弱さを引き受けるために十字架にかかってくださったというのです。「イエス様、助けてください、私をあわれんでください」と祈り求めて、このキリストの救いを受ける時、心に安らぎを頂くことができるのです。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とは、あなたの困難や苦しみをイエス様が担ってくださり、イエス様が共に歩んでくださるという意味です。
神に祈り、ゆだねる
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理科を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)
もしあなたが自分の苦しみや悲しみ、痛み、思いの丈を神様に正直にお話しすることができるなら、心に平安が与えられることを経験すると語ってくださっているのです。
ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:6-7)
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩編37:5)
私たちが、思い煩いや痛み、悲しみ、それらを正直に神様に打ち明けて祈ることができるなら、これだけで気持ちがぐっと楽になってきます。そればかりか自分の弱さ・足りなさを認めて「本当に神がそのような力を持った方ならば、この問題を何とかできるはずですよね!」と、この方にお任せして委ねるなら、神様が心配して守ってくださる、助け導いてくださると語ってくださっているのです。
私も今まで「これがいい」と思っていろいろな事をやってきましたが、なかなかうまくいかない時に、「神様にゆだねなさいと書いてあるのだからゆだねよう!」と思ってゆだねてみると、後になって、考えもしなかった良き道が開かれて「ああ、あの道が開かれなくて良かった、本当にゆだねて良かった」という経験を何度も何度もしてきました。神様に信頼してゆだねて「神様が守ってくださる、助け導いてくださる」という経験を重ねていくと、様々な出来事が起こっても「神様がおられるから大丈夫!」と思えるようになってくるのです。多くの人が「神様は本当に生きておられる」という経験をしてきていますが、それでも私たちには自分の計画や自分の考えがあり、なかなかゆだねられないのです。しっかりと自分で握ってしまっているのです。そうではなく、自分の弱さ・足りなさを認め、自分の手を放して神様にゆだねていくなら、私たちはどんな境遇の中にあっても幸せを感じることができるようになれるのです。それは、物が与えられるとか、何かができる、成し遂げられるとかいうのではなく、神様がこんな私と共にいてくださり、助けてくださるということが分かるようになるからなのです。
神様は、私たちが自分の弱さを正直に神様に話す(祈る)ことが難しい者であることを知っておられます。ですから「こんな私をあわれんでください」だけでもいいのです。祈り続けていく内に、正直に話してみようと思えることでしょう。そして話せた時に、安らかな気持ちになると思います。
どうぞあなたの心配を神様にゆだね、力強い御手の下にへりくだらせて頂きましょう。皆さんもきっと、どんな境遇の中でも満ち足りる心を持つことができるような経験をなさると思います。