東日本大震災が起きた13年前の3月11日は、丁度「シャロンの花のつどい」が行われた日でした。当時、震災の中でよく言われた『絆』という言葉を覚えていますか。今日は本当の意味での「愛の絆」というものをご一緒に考えてみたいと思います。
4つの愛
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
コロサイ3:14
『絆』と言っても、仕事上の絆や親族関係の絆など、いろいろな絆がありますが、ここで言っているのは、「本当の絆は愛」だということです。日本語では『愛』ですが、聖書は『愛』を4つの言葉(ギリシャ語)で表しています。第一番目の愛は「エロス」の愛です。「エロス」というとエロティックなものを思い浮かべるかもしれませんが、別の言葉では「求める愛」と言われています。「ああ、もっとこっちに向いてくれたら」「もっと私に優しくしてくれたら」「もっと会いたいなあ」「もっと一緒にこういうこともしたいなぁ」などです。大恋愛は甘酸っぱくて、純粋で素敵な愛のようですが、実はこのエロスの愛は、結構脆くて壊れやすい。自分の求めが満たされているときは、とても良い関係でいるのですが、いったん求めているものが得られなくなってくると「こんな人だとは思わなかった」と、がっかりして熱が冷めてしまい、行き詰まるのです。なぜなら「求める愛」だからです。これでは本当の絆にはなりません。
第二番目は「フィレオー」の愛です。別の言葉でいうと、「見返りを求める愛」です。この愛は優しくて親切なのですが、「これだけ優しくしてるんだから、これくらいやってくれてもいいよね」「これだけやってるんだから、これくらいは応えてくれてもいいよね」と、皆さんもそう思うことはありませんか。多くのご夫婦の関係はこれではないでしょうか。特に一方的に与えるばかり、受けるばかりで感謝の言葉もないなら、やがて我慢の限界がきて「もう嫌だ、もうやっていられらない、さよなら」とならざるを得なくなります。これも一見確かそうで、実は非常に不安定な愛、絆なのです。
第三番目は「ストルゲー」という愛で、言い換えれば「家族の愛」です。友達関係と違い、私たちの内には「家族の場合は特別だ」という気持ちが働くと思います。普通だったら我慢できないことでも「家族だから仕方がない」と、それなりに普通以上に我慢する。一見すると無償の愛に感じるかもしれません。子供だから、親だからと、いろいろするのですが、これも「見返りを求める愛」の形なのです。たとえば子供を一生懸命に育てていても、何のために育てるかといえば、老後に自分の面倒をみてもらうためかもしれません。
結局、私たちが「見返りを求める愛」で歩んでいるなら、ちょっとしたことでグラつくようなものになってしまい、そこには確かな絆というのはできないのです。
第四番目の愛は「アガペー」の愛です。これは「無償の愛、見返りを求めない愛」で、別の言葉でいうと「神様の愛」です。相手がどういうことをし、どういう者であっても、それによってこちらが変わることはない。たとえ不義理な事がいろいろあったとしても「ううん、大丈夫、もう赦してるよ」と、赦しがあったら回復できるのです。もうダメになってしまうと思うような関係すらも回復することができる。「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です」という愛は、このアガペーの愛のことであり、結びの帯として完全なものになるのです。そして、この愛に私たちが生きるときに、揺るがない関係が生まれてくるのです。
無償の愛(神の愛)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Ⅰヨハネ4:10
このアガペーの愛、神の愛は、私たちが良い事をするので愛するというのではなく、私たちが犯した罪さえも担ってくださる愛なのです。この愛は、たとえ私たちがどんな不義理をしようが、どんなにいい加減な者であろうが、それで私たちを見捨てるような愛ではなのです。どんな時でも変わらずに私たちに注ぎ続けてくださる愛。それが神の愛だというのです。
実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ローマ5:6-8
私たちが弱くて何も良い事ができず、「何が神だ、神だったら俺たちを救ってみろ」と、神をののしるような不敬虔な者であった時にも、神様は「でも私はあなたを愛しています。」と言って、イエス様を私たちの罪の身代わりとし、十字架で私たちの罪を赦しを成し遂げてくださったのです、
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
ヨハネ15:12-14
まずここで知っていただきたいのは「人が自分の友のために」の友とは誰のことですか? それはあなたです。神様はあなたを友だと言ってくださる。もったいないと思いませんか。たとえばイギリスのエリザベス女王があなたに「あなたは私の友です」と紹介されたら、あるいは天皇から「私はあなたのことを知っているよ。あなたは私の友だよ」と言われたら、恐れるような、鳥肌が立つような、それほどの事ではないでしょうか。イエス様はあなたを友だと言ってくださるのです。そしてイエス様が十字架にかかったのは、友であるあなたのためなのです。私たちに罪があったら、そのままで友になることはできないため、その罪を解決するために、何と自らがその犠牲になられたというのです。「人が友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」神様の絶大な愛があなたに注がれて、それがあの十字架となったのです。重要なのは、この愛を私たちが受け取るか、否かです。「へぇ、そうなんだ」と、他人事として聞くこともできますが、もしそうであれば、皆さんの内に何の変化もないと思います。でも「この私のために、こんなどうしようもない、こんな弱さを抱えた、愚かな私のためにイエス様が死なれた。神様はこんな私をも愛してくださっているんだなぁ」ということを本当に受け取るなら、不思議に心がホクホクして私たちは元気になってくるのを実感することでしょう。そうすると、「~ねばならない」ではなく、「私も隣人を愛し、この方の喜ぶことをしたい」と思うようになってきます。しかし、この愛は神様から受け取らなければ、私たちの内からは出てきません。なぜなら私たちの内にはアガペーの愛がないからです。皆さんは、自分には愛があると思って一生懸命出そうとするのですが、私たちの持っている愛はエロスやフィレオー、せいぜいストルゲーまでなのです。本物の愛、アガペーの愛は神から来るのです。では、どのようにしたら、この愛を受け、また周りに流すことができるのでしょうか。
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちにし示されたのです。Ⅰヨハネ4:7-8
朝毎に神様にお祈りすることをお勧めします。「神様、今日もこの私をそのまま受け入れて愛し、赦してくださっていることをありがとうございます。あなたの愛を、あなたの本当の優しさを知っていくことができますように。少しずつでも周りの方を愛する者に私を変えてください」など、神様と交わりの時間を持つようになさってください。あるいは聖書の言葉をよく読んで、「神の愛」をしっかりと受け取っていきましょう。気が付くと見返りを求めない愛が少しずつ与えられ、その愛は周りに流れていき、確かな絆ができ始めることでしょう。私たちも一歩を踏み出していきたいと思います。