今の季節は「木の芽時」とも言われ、毎日の気温の変化が大きく、またホルモンや気圧の影響で心身共に不調になりやすい季節でもあります。特に私たちの「心」は、些細なことで不安定で移ろいがちになります。今日はご一緒に心を安定させる秘訣を聖書から学んでいきたいと思います。
自分の心を見守る
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。箴言4:23
私たちは様々なものに目を向けたり、注意を傾けたりするのですが、一番大事なのは 自分の心を見守ることだと聖書は語ります。心が悪いことに向いてしまうと、その支配の中に置かれてしまうからです。例えば、夜道に後ろから怪しい車がついてくると思ったら、もうその途端に恐怖心でいっぱいです。でも「家族が迎えに来てくれたんだ」と思ったら、怖い気持ちは出てきません。心が何に向いているか、何に支配されているかによって、私たちは強い影響を受けるということなのです。
最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての尊ぶべきこと、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。ピリピ4:8
皆さんの心と目は、今どこに向かっていますか。私たちは、良いことにも悪いことにも目を向けることができるのです。でも否定的なことに心を向け続けていくならば、次第に心は暗く弱くなり、マイナス思考に陥っていくことでしょう。反対に良いことに向けるなら、プラス思考になれるのです。
感謝する心
奴隷解放を成し遂げたアブラハム・リンカーン大統領は素晴らしい働きをしました。その彼がまだ弁護士だった頃、「私は生きている人間の中で最もみじめな人間だ。私の気持ちが世界中の人に伝わったら地球上から笑顔は消えてしまうだろう。これから良くなるかどうか私は分からない。こんなことは考えたくないが、きっとダメだろう…」と、このような悲観的なことを言っていたのです。
ところが22年後、「今年も終わりに近づいてきた。この1年は豊かな収穫と素晴らしい天候に恵まれた年であった。この年のすべての恵みをくださった神への感謝の心を忘れてはならない。」彼はアメリカ大統領として南北戦争で亡くなった大勢の人を見て、辛さや痛み、悲しみを通ったはずです。でも彼はその中から、良いことに目を留める秘訣「神様に感謝する」ことを学んだのです。
皆さんも『感謝できること』あるいは『これがあったので良かったこと』を書き出してみてください。「住む家がある」「体が動く」など小さなことでも大丈夫です。次に、それらが奪い取られた時のことをしばらく考えてみます。「住む家が火事で燃えてしまったら」、「骨折して歩けなくなったら」などを書き出してみる。すると、現状が「これも感謝」「あれも感謝」と思え、自分に与えられているものが、どんなに恵みに満ちているかに目が向けられてくるようになると思います。
今、あなたの心は元気になっていますか。暗くなっていませんか。悪いことばかりに心と目を向けてしまってはいないでしょうか。「あの人ひどいよ」と、あの人を見る前に「あなたの心を見てごらんなさい」と聖書は言うのです。もし悪い心、妬みの心、マイナス思考になっていると思うなら、「良いことに目を向ける」(ピリピ4:8)ことです。これが日常の生活において私たちの心を安定させる秘訣なのです。では、私たちがこれを行うために必要なことは何でしょうか。
神の愛を受け取る
わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。―主のことば― 。それは、わざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。エレミヤ29:11
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Ⅰヨハネ4:9-10
私たちは、神様が平安と将来と希望を与える計画を持っておられる方であることを受けとめていく必要があります。それは神様が愛の方だからです。神様は私たちを救うために、最も大切なひとり子のイエス様をこの世に送り、その命をあなたの身代わりとして犠牲にされました。このことを「愛である」と受け止めるか否かなのです。この愛を受け取る時に人は変わり始めます。イエス様と共に十字架につけられた2人の強盗は、最初こそ二人ともイエス様を罵っていました。しかし、イエス様が語られた『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです』(ルカ23:34)との祈りの言葉を聞いた時、一人の強盗は、この人は本当に人を赦すために、愛するために来てくださったのだと理解し、救い主として受け止めたのです。それ故『あなたの御国に入られるときには、私は思い出してください』(ルカ23:42)と言ったのです。するとイエス様は彼に向かい『あなたは、今日、わたしとともにパラダイスにいます』(ルカ23:43)と言われました。直前までイエス様の悪口を言い、非難していた彼が、イエス様に救いを求めただけで、天国が約束されたのです。イエス様は私たちの罪と死の問題に立ち向かい、すべての責任を十字架でご自分の身に受けて、「大丈夫。私があなたの身代わりになるのだから。あなたの罪はもう赦された」と言ってくださったのです。神様は本当にそこまでして私たちのために救いを用意してくださいました。これが愛ではなくて何でしょうか。困難や苦しみの中でも、「神様は私に良いことを計画してくださっている」ことを思い起こしてみましょう。しかし、それでも神の愛を信じられないと思う方がおられるかと思います。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4:6-7
恐れ、不信仰、痛み、自分でどうしようもないと思う様々な事柄を正直に神様に申し上げてみてください。言ってもしょうがないと思われる事柄をも、そのまま正直に神様に申し上げていくのです。そうする時に、『すべての理解を超えた神の平安』が、私たちの心を守ってくださるというのです。すぐに祈りが答えられなくても、「このことは神様に委ねたのだから、最終的には良くしてくださるだろう」と受け止めていくのです。そうすると不思議に段々と心が落ち着いてくると思います。とにかく、まず祈ってみることをお勧めします。
私たちのためにイエス様をこの世に送ってくださったことで、神の愛は証明済みです。問題は、それを私たちが受け取るかどうかなのです。疑うことやめて、信じてお任せするのです。信じられない時には、「こんな不信仰な私を哀れんでください」と祈るのです。ある時、祈っても祈っても答えられなかった人が「ああ、自分が不信仰なんだな」と分かって、神様に「こんな不信仰の私を哀れんでください」と、お祈りしたそうです。すると、たちまちその祈っていた事柄が答えられたのだと言います。自分の頑張りや努力ではなくて、哀れんでくださる神様に心を向けるのです。そして神様にお任せしていく時、不思議なことが起こり始めるのです。私たちに必要なのは、信じて祈ることなのです。 時には、「きっとこうなる」と思える時があります。それは神様が信仰を与えてくださる時なのです。そういう時は迷わずに「きっとそうなる」と固く信じ待ち望んでいきましょう。神様からの平安が、きっと皆さんの心を包んでくださり、本当にそうなったという体験を積み重ねさせてくださることでしょう。