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十字架の力

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Andrartes / Pixabay

教会に来ると必ずあるもの、それは何でしょうか。それは十字架です。十字架とは死刑執行台です。教会の真ん中にそんな惨たらしいものを掛けてどうするんだと言われるかもしれませんが、教会は、どこでも誇らしげに屋根の上に十字架をつけています。なぜでしょうか。今回は、十字架から出てくる恵み、力というものをご一緒に考えていきたいと思います。

罪責感と邪悪な良心

私たちの心を傷つけ、人生を台無しにしてしまうものがあります。それが何かというと罪責感です。多かれ少なかれ、私たちは罪責感を持っていると、自由でいられなくなっていきます。相手に悪い事をして謝りもできないでいる時、その人が目の前にいるとしたらどうでしょうか。なかなか顔も上げられなくて、立ち去りたくなり、そこにいる自由がなくなってしまいます。
罪責感があるために不自由になり、さらに「あんな事しなければ良かった。何でこんな事をしてしまったんだろう。」と、いつも自分を責め苛まれてしまうのです。忘れようとしても思い出し、すべてをマイナスに考えて思い煩い、私たちの人生を浪費し、台無しにしてしまうことがあるのです。
私たちが人生を浪費してしまっている思い煩いには二種類あります。「取り越し苦労」と「過ぎ越し苦労」です。取り越し苦労とは、明日は雨になるか、晴れるか…これだけでも十分悩みます。雨ひとつだけでも思い煩おうと思えばいくらでもその事に時間を浪費することができるのです。また、過ぎ越し苦労とは、もう終わった後に「ああしなければよかった」と、いろいろ思い煩います。いくら考えても、何も変わらないのに、頭の中に無益なことをぐるぐる思い巡らし、自分で自分を苦しませるのです。
そんな事をしても何の前進にもならないのに、捕らわれてしまいます。私たちに必要なのは、イエス・キリストの十字架によって、そういった事から解放されていることを知ることなのです。もし「イエス様がこの私の罪のために、弱さのために死んで下さった」と思えるなら、あなたはその罪から聖められ解放されるのです。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
(Ⅰヨハネ1:7~9)

心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:22)

イエス様の血は罪からきよめるのですが、ここには「邪悪な良心」と書いてあります。
「良心」というのは良いものであって、普通はそんな邪悪と思わないかも知れませんが、特に神の言葉に関しては邪悪になることがあります。神の言葉が「神はあなたの罪を赦す、神はあなたを愛する」と言っていても、あなたの邪悪な良心は「あんな悪い事をしている者がそんな恵みを受けられるはずがない」「あなたにはそんな価値がない」と、悪い思いを心にどんどん植え付けていくのです。
私たちが劣等感やいろいろな暗い心から解放される秘訣は何かといいますと、心の中に良い言葉や良い思いをどんどん入れていくことなのです。そうするといつの間にか、その心が私たちを支配するようになるのです。いつも悪いものを入れていると出てくるものはいつも悪い言葉になります。マイナスの言葉や暗い言葉になります。でも良いものをどんどん入れたらどうでしょうか。自然に良い言葉とか優しい言葉、思いやりの言葉とかが出るようになるわけです。必要なのは良いものを入れていくことです。

罪責感からの解放

私たちは様々な罪や汚れ、弱さとか醜さなどいろいろなものをもっています。そして自分を責め立てていることがよくあることでしょう。時には人の事を責めることもあるかも知れません。神様はそういうもの(債務証書)を全部十字架で釘付けにし、破り捨てて無効にして下さいました。

(神は)私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイ2:14)

それはイエス・キリストが十字架で全部引き受けてくださり、身代わりに罰を受けて下さったので、もう私たちは責められることがないということです。そうは言っても、悪い事したのだったら、その報いや責任は取らなければならないと私たちは感じます。そのように感じさせているのは、私たちの邪悪な良心です。私たちが罪赦されたというのは、もうその事で責められることはないという意味なのです。もしイエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じるならば、私たちはもはや罪がないと認められるのです。
人は赦してくれないかもしれませんが、神様は赦して下さいます。このような神の言葉を心の中に受け入れるとき、それによって私たちに何が起きるかと言いますと、「ああ、自分のような者でも本当に赦されている、自分のような者でも本当に罪をきよめて頂いて、神様から良いものを頂くことができる」と、マイナス思考から安心できるようになる心の解放が起きるのです。

キリストとともに生きる

私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。…キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。(ローマ6:6~11)

私たちが自分でどうにもならないと思う自分。もっと優しくしなくちゃと思っても優しくできない、もっと思い煩いから解放されたいと思ってもできない、あれもこれもできない自分の弱さや醜さ、こういった事に対して「罪」という言葉が聖書には二通り書いてあります。小さい諸々の罪という複数形で現される言葉、それに対し単数形で書いてある罪は原罪と言われます。私たちの中に潜んでいる罪の性質と言いますか、そういったものが、ここでは赦すと言うのではなく死んだと書いてあるのです。イエス様を信じるということは自分のどうにもならないものに死んでいくことができるということなのです。すなわち、造り変えられる、新しく生まれ変わることができるということなのです。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、…二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(エペソ2:14~16)

どうしても赦せない人、受け入れられない人、愛せない人はいるでしょうか。そういう人を自分の力で頑張って何とか受入れようとしても、なかなか難しいものです。実際やってみれば、すぐわかると思います。私は自分の父親が大嫌いでした。良い子を演じても三日坊主で、四日目になると普段よりもっと酷い態度を取るようになるのです。頑張りでは続きません。けれども十字架は、その敵意というものを滅ぼすことができるのです。確かに父親が嫌いで敵対心もありました。会いたくもなかったのですが、イエス様を信じ受け入れた時、そういう心が、感情が、いつの間に消えてしまいました。敵意を葬り去り、愛する者へと変える力をイエス・キリストの十字架は持っているのです。
皆さんも、十字架によって与えられる恵みに是非一歩進んで下さったらと心から願います。

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