生きる意味
神谷美恵子さんは「生きがいとは」という本の中で、世の中には毎朝目が覚めるという事が恐ろしくてたまらない人、今日もまた一日を生きていかなきゃならないのだろうかという考えに打ちのめされて起き出す力も出て来ない人があちこちにいると述べています。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独と寂しさ、果てしない虚無と倦怠、そうした中で「何のために、どうして生きていかなければならないのか」と彼らは幾度も自問せずにいられないのです。
私達もそのような事に悩まされたり苦しんだりする事があるかも知れません。ただ食べて寝て生きているだけでは何か虚しく、寂しく物足りないのです。動物には生きがいを求めることはないのですが、私達は生きがいが無ければ、虚しさや寂しさを感じ、何かに没頭しようと、子育てや趣味、ボランティアに、また人に役立つことをしてみたりと、生きがいのある生き方を求めるのです。
しかしバートランド・ラッセルという哲学者が「趣味や生きがいは多くの場合、根本的な幸福の源泉ではなくて現実からの逃避の方法である」と言っています。趣味を求めたり、旅行したりなど、私達が求める生きがいは、本当の生きがいというものを見出せなくて一時しのぎの逃避であるというのです。又中国の漢という国の武帝という有名な皇帝が「歓楽尽きて哀情多し」と語り、「ドンチャン騒ぎをした後は、急に虚しさ、寂しさを感じる」と記しています。
日本の松尾芭蕉も「面白うて悲しき鵜飼いかな」(鵜飼は長良川で鵜が魚を獲る楽しみのこと。終わった時に何もない寂しい感じ)と詠っています。そのように感じるのは何故なのでしょうか。
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:26~27)
神は私達人間だけを特別な意味で神の似姿に造られたと語っています。何故私達は生きがいを求めているのでしょうか。犬にも喜怒哀楽はあります。でも「俺は何で生きているか」とは悩みません。人間だけは悩むのです。それは最初から神は人間を意味と目的を持って造られたからです。
即ち人間が地上を支配するようにしました。ですから物事が上手く行っている時は生きがいを感じることができます。家でも仕事でもきちんとできている時、それなりに充実した生き方ができるのです。しかし、そういったものはやがて終わります。子供が大きくなり、成すべき事が減ってくると寂しさが襲ってきたり、悲しさが心に広がったりするのです。
神様によって造られた私達人間は、本来は意味を持って生きることができるのですが、造り主である神様を忘れてしまうとき、虚しくなるのです。アダムとエバという最初の人間が神様を捨て、神から離れた生き方を始めた時、虚しさも始まったのです。
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(ローマ1:20~25)
大自然を見た時、こういったものが偶然できたと思えますか?もし私達が素直な心で見るなら、これは誰かに造られた、秩序を定められた方がおられるのだと認めざるを得ないと思います。この会堂が偶然造られたとは信じられませんよね。誰かが設計し造ったという事を認めます。この会堂より遥かに精密にできた自然や宇宙の秩序を見た時に、造られた方がおられるのだと認めざるを得ないと思います。
作っている時を見ていなくても会堂を見たり、これは誰か作った人がいると思えるのなら、遙かに精密に造られいる私達自身を見るときも、お造りになった方がいるという事に気づくのではないでしょうか。しかし心が頑なになって神様を認めようとしない人間は「神なんかいない、俺は自分の好きな事をやるんだ」と自分勝手に、自己中心的に生きるようになってしまうのです。
彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。 (ローマ1:28~32)
神と共に生きる恵み
人間は本当の造り主である神を神としない時、自分を神にするようになり、「自分さえ幸せならそれでいい」という思いに支配され、その結果様々な争いが出て来るのです。ですから人を平気で欺く醜い争いが幾らでもはびこります。人間はいろいろなものを正しく運営できる能力がありながら、もし畏れるものをもたず、神を認めないなら、間違った使い方をするようになってしまうのです。
たとえば、お金は経済を上手く流通するように人間の為に作られたものです。しかし沢山の人がお金の為に働いています。人間がもっと幸せになる為にとお金が作られたのですが、いつの間にかお金に支配され、お金の奴隷になってしまっています。
自分がそれぞれ”神”とするものの奴隷となってしまうのです。ですからお金の為に争ったり、人殺しをしたりさえするのです。もともと神様は私達を素晴らしいものとして神の似姿に造ったのです。生きがいを持ち、喜びと感謝を持って生きる事ができる筈だったのです。
ところが造って下さった神を忘れた時に、先ず感謝がなくなり、「与えられたのだ、生かされているのだ」という心がなくなり、そこには呟きと不平と文句だけが残るのです。感謝がなくなった生活は色あせた生活になります。反対に神様への感謝に溢れて来る時、生活が生き生きとし、彩りも素敵になっていきます。私達を生かして下さっている神が、私達を目的と使命を持って造って下さったからです。
造って下さった方に感謝する時に私達は生き生きと生きる事ができるようになるのです。
反対に「神様なんて関係ない」という生き方が始まる時、虚しさや不法が始まるのです。そして全てのものを変えてしまうような邪悪な生き方が出て来るのです。
では私達はどうしようもないのでしょうか。そうではありません。
聖書は、私達に本当の生きがい、本当の生きる意味、あるいは希望、力、そういったものを私達に与えて下さると言っています。しかしそれを妨げるものがあるのです。それが「罪」というものです。神様は聖い方ですから、私達が罪を持ったまま、神様からの恵みや力や命、希望、そういったものを頂く事は難しいのです。
ある牧師が罪が分かった時の事を語っていました。「もし心の中を映し出す幻灯機があったら私は今ここに立っている事ができない。皆の前で偉そうな事を言っていながら、心の中では、こんな汚い事を考えている、なんて醜い人なのかと驚くでしょう」と。確かに私達は人前では良い人を演じて、綺麗に装っていますが、本当は結構酷い事を考えたり、醜い思いに支配されたりしているのではないでしょうか。この本当の姿を認める時、神による赦しと解放がやってくるのです。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:8~9)
聖書は「自分の罪を告白するなら…」と語ります。自分の罪を認めるだけでいいのです。「神は真実で正しい方ですから」これは十字架を忘れないからという意味です。あなたの告白したその罪は、身代わりとしてイエス・キリストが十字架にかかって下さり赦して下さったのです。この赦しを受け取るなら、その人の内に救いが来るのです。そして神が与えた生きる喜びと神の恵みがその人に注がれ、生きる力と希望が湧き上がり始めるのです。