「のろいと祝福」

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1998年11月15日 日曜礼拝メッセージ
創世記9章18〜29節
牧師 吉田耕三

聖書は非常に正直な書物であります。非常に偉大に書かれている人々でも、必ずその失敗談,、というよりはむしろ大失敗のことも正直に書いてあるのです。ここではノアの失敗談であります。

ノアの失敗

大洪水を経験したノアたちでしたが、みなさん、ご存じですか?世界中で洪水伝説のないところはないのです。文明から隔絶した部族の中にも、必ずと言っていいほど洪水の物語があるのです。不思議だとは思いませんか。これは、ここの箇所ででてくる「全世界の民はこのハム、セム、やペテから出た」と書いてあることの裏付けなのです。

さて、ノアはブドウ畑を作りました。そしてこう、文字通り「酔っぱらって」しまったんですねぇ。ブドウというのは非常に発酵しやすいものらしいんですよ。ある教会で聖餐式に使うぶどう液を、たまには本物を使ってみようということになりまして、ブドウをすりつぶしてぶどうジュースを作ったところ、1週間後にはもう「程良いカンジ」にできあがっていたと言うんですねぇ。それくらいブドウはお酒になりやすいわけです。

そのぶどう酒を飲んで、ノアは天幕の中で、前後不覚になり、あらわな姿をさらしてしまいました。それを見たハムはどんな反応をしたでしょうか。彼はここぞとばかりに父の恥を大げさに取り扱うのです。「よしよし、あの厳しいオヤジが恥をさらしているぞ」とばかりにほかの兄弟に言いふらしたのです。それを聞いたセムとヤペテはどうしたでしょうか。なんと彼らは「後ろ向きに」歩いていって、父親の恥をみないようにしたのです。彼らは明確に、「ハムの考えには乗らない」ということを表したわけです。

起きて事の顛末を知ったハムは、たぶん忘れていて「おや、なんでわたしは裸なのだろう」と思って子供たちに聞いたのでしょうが、「呪われよカナン」といいました。みなさんここで不思議に思いませんでしたか。どうして「ハム」ではなく「カナン」なのでしょうか。実はカナンは後にイスラエルの沿岸部分に住み着いた民ですが、非常に性的に乱れていたそうなんですね。ハムはそのカナンの父親でした。ノアはおそらくハムの中にもそのような性的な弱さを見いだしていたのでしょう。

それに対して、父の恥を覆ったセムとヤペテは「ほめたたえよ。セムの神、主を。」と最高の称賛を受け、「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように」と祝福したのです。父の恥を言いふらしたハムはのろわれよと言われるくらい低くされ、その恥を覆ったセムとヤペテは祝福を受けました。

自分の真実の姿を認める

さてみなさん、私たちはこのところからどんなことを学ぶことが出来るでしょうか。

まずノアの姿があります。ノアは非常に信仰深い者でした。百何十メートルもある船をみんなのあざけりを耐えながらトンカンし、箱船を作り上げた人です。神様に信頼していなくてこんなことができますか。ノアはそれくらい信仰の人でした。でも、酒に酔ってしまったとき、裸の恥をさらすという失態を犯してしまいました。私たちはどうでしょうか。ここで気をつけるべきことは、「私たちもそのような失敗を犯す危険性が十分にある」ということです。

第1ペテロ5:8をみてみましょう。何と書いてありますか。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを探し求めながら」とあります。みなさん今この場にライオンがいたらどうします?「あれー、たすけて」と逃げ回るんじゃないですか?あなたの周りにはこのように「悪魔」がことあれば取り込もうとして、うろうろしているのです。このライオンから身を守るために自分のまわりにオリがあったらいいと思うでしょう?私たちの周りにイエス様の守り(=オリ)を作っていただこうではありませんか。神様は「あなたがたは芯まで腐っている」と言われました。

私たちにはこういう自覚はないんじゃないでしょうか。「そこまではいっていない」と思うわけです。でもペテロの姿を見て下さい。彼はイエス様が十字架につこうとしているとき、「わたしは絶対にあなたを裏切りません!たとえ死ななくてはいけないとしてもどこまでもあなたについて行きます」と意気込んだその3時間後にもう「イエスなんか知らない。呪われてもいい」とまで言ってしまったのです。これが私たちの姿なんですよ。私たちは自分の真実の姿を認める必要があります。

次にハムの姿を見てみましょう。ハムはノアが失態をさらしたとき、「やぁ、あの頑固オヤジがやってしまったぞ!」と意気込みました。もしかすると、彼は箱船を作っているときも「何で俺がこんなことやらなくちゃいけないんだ。やってられるか」と面白くない思いを持っていたかもしれませんね。想像ですけれども。でも、彼も実際に洪水が起こるのを見、一年間箱船で暮らしたのです。神様のみことばが真実に行われると言うことを知っていたはずです。それでも彼はそれに学びませんでした。私たちも、人のゴシップには敏感ですね。どうですか、人がひそひそ話しているのを聞いたらすぐに「ねぇ、何話してるの」とすぐに興味を惹かれるでしょう?また私たちすぐに人の悪いところや欠点を探し出すことができるんじゃないでしょうか。

イエスに告白する

私たちの目は2つとも「外に」向いていますね。人のアラを探すのが得意なのです。しかし聖書は「人の目のチリを見る前に、まず自分の目の梁を取りのけよ」と言っています。私たちはハムのような罪、そして性的な罪に対して、はっきりと「NO!」と言わなくてはなりません。「わたしはそのような誘惑にはのら『ない』!」と断固とした態度をとる必要があるのです。しかしながら、このときに、「しようとしてもできない自分の姿」があるわけですねぇ。ですから、「イエス様助けて下さい、わたしはもう四六時中裁いてしまう者です。それをやめることができないんです」とイエス様に告白する必要があるんです。自分の力ではできない、このことをしっかりと認める必要があります。

また、セムとヤペテの姿がありますね。ハムはノアをあざけっていたが、彼らはそういう者に対して、「NO!」の姿勢を表しました。父親は恥をさらしているが、とにかくその恥を覆ってあげよう、とそう考えたんですね。失敗をしたときに、それを責めることは簡単であります。けれども、その失敗を覆う、という働きこそ、まさしく神様の働きなのです。私たち、もし自分の罪があらわになるなら、何の申し開きもできないようなものであります。けれども、そんな私たちのためにしてくださっという神様の愛に感動し、「主よ、私もあなたに習う者にして下さい」と祈るのですね。

第1ペテロ4:7〜8を開いてみましょう。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」です。セム達の「多くの罪を覆う愛」これこそが、ノアをして「セムの神をほめたたえよ」と言わしめたのですね。私たちも人の罪を覆うこと、それこそがセムの神をほめたたえる道であり、祝福の道であるわけです。

ある一人のテストパイロット、フーバーという人のお話をしましょう。彼はサンチェゴの航空ショーに参加していました。帰る途中、なんと空中でプロペラが止まってしまいました。3人の人が乗っていましたが、フーバーの必死の操縦の結果、なんとか着陸できました。真っ先に原因を調べたフーバーは、なんとガソリンではなくてジェット燃料が入っているのを見つけました。誰の失敗か。明らかに整備の人の不手際でした。3人の命は風前の灯火でした。整備士はどれだけ叱責を受けるかと、覚悟したわけですが、フーバーの口からでてきたことばは「君は2度とこんなことを起こさないとわたしは信じている。その証拠に、明日乗るF51の整備を君に頼むことにするよ。」でした。彼がどんなに感謝し、その後献身的にフーバーに尽くしたか、想像に難くはありません。私たちもこのように人の罪を覆う、この働きに生かされていこうではありませんか。