「神の約束」

1998年11月29日 日曜礼拝メッセージ
イザヤ書9章1〜7節
牧師 吉田耕三

いよいよ今週からアドベント(待降節)に入りました。今週からは、クリスマスについてご一緒に分かち合っていきたいと思います。今日はそのような中で、神様が与えて下さった約束、「預言」についてです。

神の約束と人の約束

私たちはいろいろな約束をしますが、同時に「人の約束ほど当てにならないものはない」といわれています。人間の約束というのは、お互いの合意といいますか、それぞれが納得した上で、公平な役割を果たすことでなされるものであります。ところが、この箇所で神様がなさった約束は、神様の側にはそれをする必要は一つもなかったのに、一方的になして下さった、いわば神様にとってずいぶん不公平なものなのです。

この約束について神様は私たちに何と言っておられますか。イザヤ59章15節からを見てみましょう。何と書いてありますか。一見矛盾したように聞こえますね。「あなたがたはもう、どうしようもない者だ。だから、わたしは恵みを施そう」と、神様は言って下さるのです。あるいは同じイザヤ書の43章19〜25節に目を向けましょう。全く「不思議な」約束ではないですか。「あなたはどうしようもない。だから見捨てる」と言うのなら論理性もありますが、神様は「あなたはこんなにひどく、ちっともわたしの栄光を表さない。しかしわたしはあなたに恵みを施そう」と言って下さるのです。逆に言うと、「このような約束でなければ私たちは救われることが出来ない」と言うことなんですね。

今日の聖書箇所を見てみましょう。「先にはゼブルンとナフタリの地は・・・異邦人の地ガリラヤは光栄を受けた。」とあります。先の部分はその昔、アハズという王がイスラエルを治めていた頃にアッシリヤの圧政に苦しんでいた民に、神様がして下さった約束なんですね。そして、ガリラヤという所は、ユダヤの中では「田舎」といいますか、そこの出の人はさげすまれているような、そうした所でした。キリストの時代には、「ガリラヤから何の良きものが出ようか。あのような辺境の地から。」と言われていたほどです。しかし、キリストはこのガリラヤの地で宣教を始められたのですね。小さくて、さげすまれていたところから大いなる働きが生まれる、これが神様の働きなのです。小さな所から大きな働きが生まれるその神様のみ技を待ち望むのが、「待降」の心ですね。3、4節では、闇、苦しみ、悩みの中にあったゼブルンとナフタリの地に喜びがわき上がる、語っています。どうしようもない苦しみの中から、神様の力によってすべてが変わる、と約束されているのです。それはどのようにしてでしょうか。6節からに「ひとりのみどりごが生まれる・・」とあります。これは歴史を知る私たちには、すぐにキリストを表している、と言うことがわかります。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる、とも約束されています。

約束を待ち望む心

さて、私たちはここからどのようなことを学ぶことが出来るでしょうか。まず第一は、「これは『神様の』約束である」ということですね。そしてこれは災いを与える計画ではなく、平安を与えるものだ、ということです。エレミヤ書29章11節の所を見てみましょう。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

と書いてありますね。当時イスラエルはアッシリヤに支配され、人々の中には本当に苦しみがありました。しかし神様はこのような民に対して「良き計画だ」と、約束を与えて下さったのです。神様の約束は「良きもの」を与えてくださるものです。私たちはこの神様を本当に受け止めてきたでしょうか。

「いくら神様だって・・」と思ってしまうことはないでしょうか。しかし、私たちはこれは「神」の約束であるという事に信頼しようではありませんか。ヤコブ書1章2〜4節を見てみましょう。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

と言っています。すごい約束だと思いませんか。「私たちが完全になることができる」という約束ですよ皆さん。しかし、それには「忍耐」が必要だとそういっています。そしてそれは「信仰」を働かせることによって生じる、とも言っています。私たちに信仰があるなら、苦しみの中でも、「主よ、あなたの計画をなして下さい」と願うことが出来るようになるのです。神様は私たちを子として扱っておられるのです。ヘブル書12章にはこのように書いてあります。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」と。私たちが人生の中で出会うさまざまな苦しみに対して、それを神が与えたものとしてとらえましょう。私たちも、主の約束を受けたものとしてその約束を「待ち望んでいく」者となりましょう。

神を心に迎える

また第二に、「闇のただ中にも神様をお迎えする」ということを覚えていきたいと思います。キリストの当時はまだイエス様が神であることがはっきりととらえられなかったかもしれません。しかし、私たちはこの現在に生きるものとして、この暗い世にあっても神様をお迎えする、神様にお任せするという姿勢に歩みましょう。私たちは「なんとかうまくやってから、それから神様にお願いしよう」と考えてしまいがちな者であります。しかし、往々にして、そのような試みがうまくいかないのを痛感するのではないでしょうか。

「ミデヤンの日に・・」神様は大いなる恵みをなして下さったと、4節に書いてあります。これは、10万人もの敵に囲まれたイスラエル人になされた故事についての言及です。ギデオンという人がその指導者でしたが、イスラエル人はわずか3万人しかいませんでした。しかし神様は何と言ったでしょうか。「数が多すぎる」と言われたのです。最初は怖いものを帰らせて1万人にまで減らされました。しかし、それでもそれでもまだ神様は多いと言われる。最終的にはなんと300人になりました。でも、なんとその300人で10万人の敵をうち破ってしまったのです。皆さん、神様がなされることが、どんなに大きな事であるかお分かりになりますか。私たちが「できない」と思うことも、神様にはいともたやすいことなのです。

神様が私たちに与えて下さるのは、「私たちが何かしたから、何か努力したから」与えられるものではありません。それは「恵み」として無償で与えて下さるものなのです。神様ご自身は「あなたがたを恵もうとして、待っているのだ」と言っています。ですから、クリスマスを迎えるに当たり、私たちは一つ一つ、どんな小さな事でも、神様に願い、そして主を待ち望む者になっていこうではありませんか。そのときにあふれるばかりの恵みが与えられるでしょう。