「マリヤとヨセフ」

1998年12月6日 日曜礼拝メッセージ
マタイ書1章17〜25節
牧師 吉田耕三

いよいよアドベント第2週に入りました。今日はご一緒に、「クリスマスの立役者」(この表現がいいかどうか分かりませんが)マリヤとヨセフの信仰について学んでいきたいと思います。葛藤の中で・・・

キリスト教というものは、ある意味「殉教」の歴史と言えるかもしれません。最初の頃から弟子たちが何人も殉教してきました。そのような「決死の覚悟」の中で福音が今日のように広まった訳であります。しかしながら、考えてみますとクリスマスの最初から決死の覚悟があったと言うことが見て取れるのです。

マリヤとヨセフは婚約中の身でした。マリヤは天使から自分のお腹に神様によって子供が宿ったと言うことを示されていましたが、そのことをヨセフにも告げたとは記されていません。マリヤが「神様によって子供が宿った」と言ったところで、ヨセフはどうやってそれを信じたらよいのか。それを考えたら、告げないのは当然であったかもしれません。しかし、マリヤのお腹が徐々に大きくなっていく、これは否定しがたい事実であります。ヨセフはどう考えたっておかしな事があったと考えるのではないでしょうか。マリヤを見れば、とてもそんなことをするようには見えない、けれどもどんどんお腹が大きくなっていく・・。ヨセフはこのことでどんなに思い悩んだことでしょうか。

ユダヤの法律では、結婚しているあるいは婚約している者が他の人と関係を持った場合、石打ちの刑に処することが定められていました。しかしヨセフは「ヨセフは正しい人であったので」とあるように、彼はつらいながらも彼女を行かす唯一の道である、離縁という道を選択しようとしていました。しかしまさにそのとき夢の中で御使いが彼に現れて、マリヤの胎に宿るのが聖霊によるのだと告げました。でも皆さんだったら夢から覚めたときどう思うでしょうか。「いや、まさかなぁ。信じがたいなぁ」と考えて、疑心暗鬼になるのではないでしょうか。しかし、その後を読むと、ヨセフがしっかりとその御告げを受け止めたことが分かるのです。彼は大変な葛藤の中で、「でも、これは神様が示して下さったことだ」と信じたのです。

みことばに対する信頼

私たちも、このような「神のことばに対する姿勢」を問われることがあるのではないでしょうか。私たちはしばしば、「みことばはそう言っているが、でも・・」などと正直に信じることができないことがあるのではないでしょうか。それ故に思い悩むことが多いわけですね。

イエス様の弟子だったペテロという人物は、非常におっちょこちょいな人でした。湖で船に乗っていたとき、向こうからイエス様が水の上を歩いてくるのを見て、「イエスさま、私に『水の上を歩いてきなさい』といって下さい!」と叫びました。するとイエス様は「来なさい。」と言われる。イエス様もイエス様ですねぇ(笑)。しかし、ペテロは何と、湖の上に一歩踏み出したのです。

すると、何と歩くことができている。2歩、3歩・・。しかし、自分の周りの高い波を見たとき急に「自分は今何ということをしているんだろう」と怖くなったのですね。そうしたらたちまちズブズブと沈み込んでしまいました。

私たちにもこのようなことがあるのではないでしょうか。御言葉を聞いたときは「おぉ、神様!」と思っているのに、周りの状況や困難を見た途端、ズズズズと沈んでしまうのですね。しかしヨセフはこのとき、普段なら絶対考えられない状況に置かれましたが信仰によってそれを受け入れ、そこに立ったのです。

マリヤの献身

さてヨセフと共に、マリヤの信仰も同時に見ておく必要があります。ルカ伝を見てみましょう。マリヤがここで語った「どうぞあなたのおことば通りこの身になりますように」というのは簡単に言える言葉ではない、ということを私たちは知りたいのです。それはもしかしたら、自分の命が奪われるかもしれない、石打ちの刑を受けなければならなくなるかもしれない。そういうある意味命懸けのことばだったのです。それに加えて、突然目の前にまばゆいばかりの光を放つ天使が現れたらどうしますか皆さん。「やめてくれー」などと言ってしまいたくなるのではないでしょうか。しかし、マリヤはそのような中で自分の身を捧げる「献身」をする事ができたのです。コリント6章19〜20節を開いてみましょう。

聖書は何と言っていますか。「あなたがたはもはや自分のものではない」と言っていますね。どうしてですか。イエス様が私たちの身代わりとして、私たちの罪の購いの代価を、その体をもって払って下さったからなのです。でも神様は私たちの体を買い取ったからといって、強制的に従わせるような方ではないということがあります。黙示録には、「身よ、わたしは戸の外に立ってたたく」と書かれています。神様は私たちが自発的に心の戸を開けて神様を受け入れるのを待っていてくださるのです。そう言う意味で、神様はすべての人が自分を捧げる献身者となることを願っておられるのです。マリヤはまさしく献身者となりました。

マリヤが素晴らしかったからではない、まさしく自分の身を捧げたからこそ、主たるイエス様の母となる光栄を受けたのです。そして「神、我と共にあり」という祝福がそこにとどまった訳であります。私たちも「こんな私じゃだめです」ではなくこのマリヤとヨセフのように「この身を捧げます」という信仰に立っていきましょう。主のみことばに徹底的に従っていきましょう。困難があるときは素直に「神様、できません」と祈りましょう。そうするとき、神様は私たちに伴って下さいます。