「本当のプレゼント」

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1998年12月20日 日曜礼拝メッセージ
ヨハネによる福音書3章16節
牧師 吉田耕三

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』ヨハネ3:16

ある人はこの箇所を「聖書の中の聖書」と呼びました。もし地上から聖書が無くなってしまったとしても、この箇所が残っているなら、聖書の言わんとしたところは残る、と言いました。ですから、今日初めてメッセージを聞かれる方も、ぜひこの箇所を心に留めていただきたい。そう思います。

私たちの受け取るプレゼント皆さん、色々なプレゼントをこれまでに受け取ったと思いますが、やはり本当にうれしいのは心のこもったプレゼントではないでしょうか。今日は、「本当のプレゼント」、これを考えたいと思います。

ある少女がスイスからアメリカに、英語の勉強のため来ていました。この少女はある裕福な家に住み込みで働きながら勉強していました。その家ではクリスマスになるとさまざまな人々からプレゼントが届いたそうで、礼状を書くために、誰から来たのか控えてありました。彼女はそれをみて、自分もいつもお世話になっている家の人たちに何かお礼をしたいと思いましたが、彼女のお小遣いではとても満足させてあげられるようなものは買えない。そこでどうしたかといいますと、まずデパートに行って、赤ちゃんの服を買い、「この町で一番貧しい人たちのところに行きたい」と聞きました。すると「ハーレムだ」と言う答え。彼女は「そこに行きたいです」といいました。店員は彼女のような人が行くところではないと忠告しますが、彼女はタクシーに乗ってそこへ向かいました。

ついたとき彼女は「『これはこの町のお金が有り余っている人からのプレゼントです』と言って渡して下さい。私はそこに行きません。」と頼みました。家に帰った彼女はクリスマスプレゼントの披露のとき、自分からのプレゼントは何もないが、その家の人々の名前で貧しい人々にプレゼントをしてきたことを告げたのです。「私があげられるものは皆さんはみんな持っています。ですから、私にできる最高のプレゼントをさせていただきました」彼女は言いました。その家の人々が感激したのは言うまでもありません。

今日、私たちは神さまが私たちに下さった最高のプレゼント、「イエス・キリスト」について考えていきたいのです。今日の聖書の箇所では「『世を』愛された」とあります。「世」とは誰のことでしょうか。それはまさしく、「あなた」の事であります。「あの人は愛されるにふさわしい、でも私は・・・」と思われるかもしれない。そうではありません!神様は「あなた」を愛されたのです。クリスマスは神様が私たちにどうしても必要なプレゼントを与えられた、そのときなのです。

私はクリスチャンになってから、多くの方に、「あなたは表面上はどうであれ、心の奥底では本当は寂しかったのではないですか」と聞いて回りました。するとどうでしょう。ほとんどの方々が「そうです」と答えたのです。私がそうだったので、「もしかしたら私だけではないのでは・・」と思って聞いた結果でした。私たちは趣味や仕事、或いは知識によってそのむなしさを解決しようとします。しかし、どこを探り歩いても、これでよしというところにたどり着けないのではないでしょうか。しかし、神様が与えて下さったプレゼント、それがすべてを解決する道なのです。

新しくなる

何度かお話しましたが、田原米子さんという方のお話をさせていただきたい。この方は人生に虚しさを感じて列車に飛び込みました。五体満足でも人生が虚しくてしょうがなく、自殺しようとした。奇跡的に生きながらえたとしても、そんな簡単に人生が変わるわけが無いじゃありませんか。でも彼女が病院でキリストに出会ったとき、生きる希望が出てきたのです。なんの希望もなかったのに、「この3本の指でどれだけできるかな?」と思ったのです。

みなさん、片手の指3本でどんなことができますか。何でもできるんですねぇ。自分の名前も書け、食事もでき、ご主人のズボンを縫うことまでできる。そんな中で彼女が書いた本が「生きるって素晴らしい」でした。五体満足でも絶望した人生をして、素晴らしいと言わせたものは何ですか?彼女の中にキリストが入ったとき、

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5:17)という言葉が入ったときから、変わり始めたのですね。

ある人は、「キリスト?ばからしい。そんな思いこみに洗脳されても、しょうがないぞ」と言うかも知れない。しかし、「私はキリストによって変えられました」と、多くの人が語っているのです。幼いときに赤痢にかかり、そのときに脳性小児麻痺で全身が動かなくなってしまった水野源三さんという方がおられました。動くのは目だけです。その目のまばたきを使って一文字ずつ書いた詩のなかで、「もし私が苦しまなかったなら、神様のことは分からなかった。苦しみよ、ありがとう」と語りました。そうしてそんな力が沸いてくるんでしょうか。人は本当に生まれ変わることができるのです。そして、イエス・キリストはそのような力を私たちに与えるが為に、この地に来て下さったのです。

私たちが決して克服することにできない悩み。苦しさ。そして死の恐れ。キリストはそのような苦しみを受けて下さったのです。教会にいくと必ずあるのが十字架であります。しかし皆さん、十字架とは何ですか?これは「死刑執行台」ですよ。世界中でもっとも醜いもの、それは十字架ではないですか。何でこんなものをぶら下げるんですか。決してぶら下げてはならないものが十字架ではないですか。でも、この十字架こそが、私たちを本当の希望に導くものなのです。この十字架の上で、私たちのすべての罪、すべての呪い、すべての汚れの罰を受けて下さった方がいるのです。あなたが今、どんなところにおられるか、分かりません。しかし、キリストは神でありますから、すべてのことをご存じです。そして、たとえあなたがどんなに汚れていようと、どんなにいい逆らっていようと、なお、「私はあなたを愛している。私はあなたのために死んだ」と言って下さるのです。みことばを読ませていただきます。

『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5:6〜8)

私たちがまだ罪人であったときに、神様に汚しごとを言っているそのときに、「私は分かってるいる。あなたがなぜそういうのかも。だから、私はあなたの身代わりとして、前もって身代わりに十字架につこう。だから、あなたはわたしを信じるだけでいいんだよ。私はそのために死んだのだから」と語って下さるのですね。クリスマスは私たちが打ち勝つことのできない、どうすることもできないその問題に、本当の解決を与え、備えて下さり、それを宣言して下さった、祝福のときであります。

多くの人がこのクリスマスを迎えます。そのところをどうやって歩むか。そこを通り過ごす人もいるでしょう。でも、「もしや、それは私のためかもしれない」といって、受け止める人もいるでしょう。そして、その人の心に、確かに希望の光がともり始めることでしょう。暗闇のなかでも、一本のロウソクがあれば、聖書を読むことができる。私たちの心がどんなに暗かろうと、神様の光があなたを照らして下さるのです。

キリストは、自分を殺そうとする人たちのために、「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からないのです」と言われました。十字架は、あなたへの愛の現れなのです。この愛を受け取っていただきたい。そのときにあなたの心に新しい力があふれ出るんですね。あなたもこの愛を受け取ってはいかがでしょうか。そのときに、最高のクリスマスが、あなたの内にあることでしょう。