1999年9月26日 日曜礼拝メッセージ
創世記33章1〜20節
牧師 吉田耕三
キリスト者の信仰生活
私達の信仰生涯は様々な時があります。喜びに溢れている時、苦難の中にある時、ある時には自分が本当に成長して、どんどん神様の恵みを味わっている時があるかもしれません。けれどもある時には中々自分が変わっていかない、こんな風では本当に信仰を持っていると言えないのではないかと思ってしまう時もあります。これは私達の自我が砕かれていないというのがその原因であるのです。聖書には
「だれでもキリストのうちにあるならその人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」第2コリント5章17節
とこの様にあるのですが、私自身どうも全く変わったとは言いきれないと感じる事がしばしばありました。その原因が何処にあるのか、と神様に求めますと、実はそれは「自我が砕かれていない」と言う所に本当の問題があるのだという事を教えられ、またそこから解放されていく者とされていきたい、と思うようになりました。
自我が砕かれる
実際自我が砕かれる時はつらいです。不安で不安で、皆様はそういう不安に陥ったことがあったでしょうか?どうしようもない居ても立ってもいられない不安。恐怖心そんな思いにさいなまれた事があったでしょうか?全くそういうものに左右されない変わらない平安を、自我が砕かれた時に体験し始めるのです。私達がどうも変えられていかないというのは、自我が砕かれていないからなのです。この自我を砕かんが為に神様はあえて私達を相性のあまり合わない方や生活の中で上手に対処できない場面や状況の中に置いたりするわけです。その時に私達はついついあの人が、この人が悪い、このような状況だから、あのような場合には仕方なかったと他人を責めていく訳ですが、この時には殆どなんの変化もないのです。
私自身の経験ですが、『変えてください、変えてください』といっても余り変化がないのです。しばしば同じ様な出来事が重なるのです。その時に「あれ?」と思い始めるのです。この人、あの人の問題とおもいきや、もしかするとこれは私への訓練なのかな?と思い始めるのです。そして、「もしそうなら……」この祈りが始まると急に事が変わり始まるのです。
新しい歩みへ
「私への訓練ならそれで結構です。周りの人達はこのままで、状況もこのままで結構です。どうか私がこの事をそのまま受け入れられるように変えてください。」という祈りを始めるとたちまち速やかにその事が解決して先に進んだ事を何度も何度も経験しました。「主よ、分かりました。あの人を変えるのではなく、私を変えてください」という祈りが始まると問題は霧が消えていくようにスッーとなくなっていく事のです。そのときにこれまで知らなかった平安と今まで以上の喜びが沸いてくるのです。聖書の中でイエス・キリストは、『私が与える水を飲むものは誰でも決して渇く事がありません。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が涌き出ます』
と話しています。このように言うが、私の中には泉が湧き出るようには出てこない、チョロチョロとはあったとしても泉のようにはとても湧いてこないと感じていました。しかし神の訓練の砕きの業を受け取り始めると変わらない平安というものが内側から段段と出始めてきたのです。
神は様々な嫌だと思える出来事を通して私達の自我を砕こうとしているのです。『私の自我を砕いてください』という祈りが始まる時あなたの内側からも根本的な変化が起きてきます。表面的な変化ではない内側からの変化が訪れてくるのです。是非この事を覚えていただきたいのです。「平安を得たい、平安を得たい」と思っているのに、または「希望や喜びを得たい」と思っていてもそれが長続きしない。そのような方はこの「自我が砕かれる」という訓練を通して始めて真の平安や喜びを得られるのだという事を覚えてください。
皆様が悲しみや苦しみに出会う時「主よ、どうぞ私がここで変えられるように、ここで学ぶべき事を悟るようにしてください」
と祈りはじめると、神様はあなたのうちに砕きの業を始めそこからあなたの内に生ける水の川が流れ始める事を経験される事でしょう。そして神様のこの道に共に歩んでいくものとされていきたいものです。しかしここで注意をしなければならないのは、「霊的祝福を受けた後は罠が待っている」、ということです。全面的に祝福されていると錯覚をおこし、自分の決定した事までもが、神様による祝福であると思いこんでしまうのです。
最後に本日の個所から二つの事を学ばせていただきましょう。神様によって私達の自我が砕かれる事を求め、神様によって変えられた後も高慢にならないように注意して、祈っていきましょう。