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「信仰の後退」

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1999年10月3日 日曜礼拝メッセージ
創世記34章1〜31節

牧師 吉田耕三

聖書とは

聖書は私達に正直な人間の姿を語ってくれます。良いところだけでなく、しばしばよくないところ、こんな事をかいても良いのかなと思う所も書くことがある訳です。私達の信仰の生活は良いところもあります、本当に神様の恵みを日々味わっていると思う時もあれば、ある時には段段と神様が遠くなっていって、本当に神様がいるのであろうかという気持ちになってしまう事も事実で有ります。信仰には色々な状況がある。神様から祝福を与えられて神様の存在を身近に感じた後におこってくる誘惑について本日は学ばせていただきましょう。

人の弱さ

ヤコブは神様から祝福を頂いた後に、再び安心してしまったためでしょうか、自分の元々の性格が出て来てしまいました。元々自分勝手で、ずる賢いというところがあった訳ですが、彼は本来ならば生まれ故郷のベテルへ行かなければならなかった。しかしそこに行く前にスコテという所で『ここも良い所』とそこにとどまってしまったのです。何年間かそこにとどまった後、それからシェケムという所に行きました。ここは交通の要所で、良い所にあるのです。彼はお金を出してその土地を買ってしまったというのです。神に祈ってではないですよね?自分の目に、自分の考えに良いと思う事を行った訳ですが、そこに神の存在を考慮にいれていなかった。実はこれが誘惑となっていった訳であります。

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」ヤコブの手紙1章14〜15節神に従うのではなくて、自分の欲のままに歩み始めてしまった、その時から祝福の道からズレ始めていったのです。その結果が本日の34章に出てくる訳であります。

与えられた試練

ヤコブの娘ディナがシャケムという人物にいわゆる強姦を受けた。この様ないたたまれない事件がおきてしまった。その原因の一つには、ヤコブが神の導きを求めないままにそこにとどまり自分の欲を肥やそうとした結果ではないかと思うのです。しかし、このシェケムはディナに対して、心から引かれていったようであります。「どうしても結婚したい」というのです。この時のヤコブの姿を見てみましょう。

「ヤコブも、彼が自分の娘ディナを汚したことを聞いた。息子たちはそのとき、家畜といっしょに野にいた。ヤコブは彼らが帰ってくるまで黙っていた」何故黙っていたのかは知る由がありませんが、想像するに、実はだんだんと霊的リーダーシップが失われていったのではないかと思うのです。

これまでに神に従い、霊的なリーダーシップを持って一族を導いてきた訳であります。しかし自分の欲のままに歩み始めた時から、霊的なリーダーシップというものが揺るがされていった。もはや、あまり力を持つ事が出来ない、家族に対して影響力を発揮することもできない、いやそればかりかどういう時にどういう判断・決断をしなければならないのかという事が非常に出来にくくなっていったのではないかなと思うのであります。しかし、神にあって私達は大いなる力を頂く事が出来ます。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」ピリピ書4章13節或いは、「私を信じるものは私の行う業を行い、もっとおおきな業をおこないます」

と聖書には書いてあります。本当に神と共に歩むものに対して大いなる御力をあらわしてくださるという事をはっきり、聖書は語っているわけであります。けれども同時にその神から離れるならば、私達は霊的な力を失うという事も同時に語っているわけであります。

日々誘惑にさらされる

その後の彼らの行動を見てみましょう。ヤコブの息子たちは復讐を考えました。しかし既に霊的リーダーシップの失われたヤコブは何一つとして実際の指示をせず、息子たちが起こした行動に対しても、その行動を諌めるわけでもなく、逆に自分の不利になった立場に対してつぶやきを言っているだけです。「あなた方は困ったことをしてくれた」と。さて皆さん、ここにヤコブの信仰が後退し、そして信仰からはずれた時におこってくる災いというものが見えるのであります。神の祝福が消えかかっている部分を私はここに見るわけであります。しかしこれは何もヤコブだけではなく、私達もこの様な誘惑に日々あっている事を知ることが大切です。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」ペテロI5章8節

祝福を得る道とは

私達にも、同じ誘惑がたえずやってきているのです。ヤコブの出会った事柄はそのまま私達が日々出会っている誘惑であり、戦いであると言う事。私達はそこに対して、常に新たに備え、立ち向かっていく必要があります。「堅く信仰に立て」と聖書は言っています。私達は本当に神を見上げているでしょうか?或いは他の人と同じように暮し向きばかりに目が向ってしまっているでしょうか?ヤコブの陥った誘惑に心を留めて、そして同じ誘惑に陥る事のないように、堅く信仰に立ち歩んでいく事が必要ではないかと思います。

何時でも神の道から私達を引き離そうとする誘惑がある事を覚えたいのです。本当に神に従っていくという道に歩む、そうでなければせっかく私達に備えて下さっている祝福を無にしてしまうのです。

私達は祝福を与えられるだけではなく祝福の基とされ、立たされている。しかし私達がその信仰にしっかり立っていかなければ、そのような祝福を閉ざしてしまうという危険性が何時でもあることを覚えたいのです。そして、神に従っていく者にされていきたいのです。

私達が本気になって神に従っていくかどうか、というのは意味があります。アブラハムが本当に神に従った故にその子孫を祝福してくださいました。私達が本気になって従っていく時に、私達だけでなく子々孫々にいたるまで祝福を与える。「私達は祝福の基となる」。これが聖書の語るところであります。私達も誘惑に乗らないで、神に従っていく道を選び、神の祝福を受けるだけでなく、その祝福を与えていく者とされていきたいものです。

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