「偏った愛の結果」

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1999年11月7日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書創世記37章1〜24節
牧師 吉田耕三

前回は創世記36章から、救いの系譜の流れにおいては傍系(わき役)であるエサウについての系図を学ばせていただきました。さて、本日の37章は救いの恵み、祝福の本流であります、ヤコブの系譜、特に息子ヨセフの生涯が記されているのであります。今日はここを通して、人間の愚かしさと同時に、そこに現わされる神様の御業(みわざ)を御一緒に教えられていきたいと思います。

ヤコブのヨセフに対する愛

ヨセフは12人兄弟の中の11番目の子供として生まれました。最愛の妻ラケルの息子として生まれました。しかし、彼は兄達の悪口を父親に言うのですね。取り入る術を知っていたと言うのでしょうか?悪口を言って自分だけが良い子になるんですね。こういう事をする人物であったのです。ところが、父親のヤコブは見ぬけていなかったのか、見ぬいていてもなおかつそうしたのか分かりませんが、このヨセフを『偏愛』、つまり偏った愛で愛するのです。

父親は彼にだけ非常に美しく、素晴らしい袖つきの長服(綾織の長服)与えているのです。他に11人の子供がいるのに、このヨセフにだけ、このようなえこひいきをする。これは問題です。そして、これが多くの困難や問題を引き起こしていく事になるのです。

英語で『甘やかす』と言う言葉は「SPOIL(スポイル)」と言います。スポイルの直接の意味は「傷つける」という意味です。愛しているようで、実は傷つけているのです。そして、偏愛を受けていない側の人間は「ひがみ」、「ねたみ妬み」や「敵対心」などの感情を持つかもしれません。そしてお互いの間は非常に難しい関係になります。良かれと思ってやった事が、難しい問題をもたらすという事が多いのであります。

偏愛する側の態度

私達は自分の中に巣食う偏愛、偏った愛に対してきちんとした処理をする事が大切です。『私はえこひいきする者です。偏った愛になってしまうものです。こんな私を赦して下さい』と祈るときに神様は変えてくださるのです。「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」ヨハネI1章9節

と聖書にあるとおりです。私達に必要なのは、誤魔化す事でも、言い訳をする事でも、弁解する事でもなく、「その通りです。そういう弱さを持っています。私はそういう者です」と認め、「本当に私はその様な弱さがあります。神様私を憐れんで下さい」と祈ることです。そのときに、神様はその罪を赦し、きよめて下さるというのです。この恵みにしっかりとあずかっていきたいものですね。

ある方は、1回は祈るんです。『神様、私は妬む者です』とか『嫉妬する者です』とか。少し気持ちが楽になるんですが、また誰かを見た途端にすぐに嫉妬するんですね。そうすると、「ちっとも変わってないや」と言って諦めてしまうのです。しかし諦めてはいけません。何度でも、何度でも、何度でも、何度でも、その事を繰り返して頂きたいと思います。

失敗したからといって諦めないで下さい。何度も、何度も続けて下さい。

これは、罪を告白したその瞬間に気持ちが軽くなり、そうするとサタンは私達を誘惑して罪に再びおとしいれようとしてくるからです。祈って罪を告白して、スッと神様に立ち直って、また直ぐにサタンの誘惑に負けたというだけの事なのです。ですから、負けない所まで何度も何度も何度も祈っていったらよいのです。遂には神様のほうが打ち勝つのです。

偏愛を受けた側の態度

さて、次にヨセフの姿をから学びたいと思います。ヨセフの特徴は『高慢さ』です。ヨセフはわがままに育ちました。ですから、態度や言葉が高慢になっていった訳です。私達の内にも、『高慢』は絶えず、絶えず出てくると思いませんか?私達も高慢さを神様によって清めていただく必要があるのではないかと思います。しかし聖書は高慢というものは、私達の心の中にイラクサの様に生えてくるものであると言っています。

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18章12節「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」箴言29章15節この2つの御言葉を常に心に留めておきましょう。

偏愛を受けていない側の態度

兄弟達は偏愛を受けていた弟と穏やかに話しをする事ができなかったという事が書かれています。えこひいきされた故に、ねたみ妬みや嫉妬を持っていた訳です。これは結して小さな罪ではないのです。私達はこれもしっかり処理して行く事が大切だと思います。

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」ヤコブ3章14〜16節

誰の中にもあるねたみ妬みや嫉妬、敵対心、それらは結して小さな物ではありません。それがある時に私達はとんでもない状況になってしまうのです。例えそれがどんなに正しく見えたとしても、私達の中に苦味や妬みや敵対心があるならば、そこから来た知恵は捨てなければならないのです。それがどんなに正しい思いであったとしても、それは地に属し、肉に属し、悪霊に属するといっているのです。

私達の中に邪悪な思いがあるならば、それは切り捨てなければならない。それが必要であり、大切なのです。そうでなければ、私達は邪悪な思いに捕らわれてしまうのです。

しかし、この兄弟達の気持ちを考える時に、確かにねたみ妬みや敵対心それ自体は悪いと言えるかもしれませんが、同時に彼等はこの事でひどく傷つけられていたのです。父親によって、目の前で差別されて、そこに憤りが出てきた。この憤りをそのままにしておく事は良くない事であります。正直に神様にこの事を申し上げる事が必要と思います。

『本当に悲しかった、傷ついた、主よこれを癒してください。この心の傷を主よ、癒してください』と神様に告白する事が必要です。イエス・キリストの十字架は、その様な私達の心の傷を癒すために、そこから解放され清める為に与えられたのです。『主よ私はこの様に悩んでいます。この様に苦しんでいます。この様に立ち止まっています』と素直に主の前に出ていく者となりたいと思います。神様はそこに豊かな赦しときよめを与えてくださいます。私達はただ『そうです、その通りです。その様な弱さがあるのです。どうぞ癒してください』と申し上げれば良いのです。神様はそこに業を成してくださるのです。