「神様のお取り扱い」

1999年11月21日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書創世記37章23〜36節
牧師 吉田耕三

私達はしばしば人生の中で「何故こんな事が起こるのであろうか?」「神様がいるのにどうしてこの様な事が有り得るのだろうか?」というを経験する事があります。その様な時に私達は、「神様は自分を見捨ててしまわれた。自分を顧みてくれないのではないか?」と考えてしまう事がよくある訳です。しかし神様はその様な苦しみ中にあっても私達を覚え、訓練し、導いて下さっているのだという事を共に覚えさせて頂きたいのであります。

父ヤコブと息子ヨセフ

神様はヤコブ、そしてこのヨセフを祝福されました。しかしながら、ヤコブにしてもヨセフにしても、神様の願い通りの生き方をしたのではありませんでした。ヤコブは12人いた子供達の内のたった一人(ヨセフ)だけを愛しました。愛したというよりも、甘やかしてしまった。甘やかされて育ったヨセフ自身も欠けを持った人間となってしまったのであります。ヨセフはいつも一人よがりで、他人の気持ちを理解し、察する事のできない人間に育ってしまいました。

でも神様はこのヨセフを通して、彼等一族を祝福しようとしていました。彼等が神の民として整えられる為に、ヨセフは何とかして訓練されなければならなかった。本来ならば父親ヤコブから受けるべき訓練を、神様ご自身から、ある意味非常に厳しい取り扱いを受けなければならなかった訳です。

ヤコブ親子の試練

ヨセフは、父親の言いつけで、原野で羊を牧している兄達の所にやってきました。遠い旅路をぬけてやっと兄達に会えたと思ったら、兄達は自分を捕らえて、父に作ってもらった特別の長服を剥ぎ取り、穴の中に投げ込んでしまった。本当に悲しい思いをしたのです。今まで可愛がられ、色々な事があっても父親に庇われていたのではなかったかと思うのです。

兄弟の中でヨセフだけが父親からえこひいきされている。

その結果、兄弟達の反感を買ってしまった。そして今、父親がそばにいないという訳でこの様な仕打ちをされた訳です。ヨセフは必死になって兄達に憐れみを請うたのであります。しかし兄達はそれを聞き入れなかった。その時になってヨセフは自分が今までやってきた事の意味が少し分かり始めた。「自分が言ってきた言葉や態度がこんなにも兄弟達を怒らせて、憤らせてしまう出来事であったのか」と、初めてその言葉が響き始めたのではないかと思うのです。

兄達はヨセフを殺そうとしていましたが、最終的にはイシュマエル人の商人に奴隷としてヨセフを売り渡します。自分をいつも可愛がり、庇い、優しくしてくれた父親からも引き離され、故郷からも遠く離れ、誰も身よりなく、これから先どの様になっていくかも分からない不安に包まれるところに彼は追いやられてしまった訳です。

そしてこの出来事を通して大変大きな傷を受けたもう一人の人物がいます。父親ヤコブです。

実はこの厳しい取り扱いはヨセフに対するものだけではありませんでした。その様にヨセフを育ててしまったヤコブに対する神様からの訓練でもあった訳です。ヤコブはヨセフだけを特に可愛がってしまう自分のどうしようもない姿。

彼等が祝福の基、祝福の器とされる為に、親子は無理やりに引き離されなければならなかった訳であります。この様なご訓練、いわゆる「肉が砕かれる」という経験を通らなければならなかったのです。神様は時に私達の内の様々な肉なる物を捧げるように導く事があるということを覚えたいのであります。

肉なる思いと神の祝福

イエス・キリストは『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい』マルコ8章34節

と語りました。またこの様に全てを捧げて従っていきなさいと語りました。私達が何かに執着していますと、本当の意味で神に従うということが難しいのです。自分の思いが強い為にそこに現われる神様の御業を受け取る事が出来ないのです。だから神様は時に私達に厳しいと思う事、辛いと思う事に出遭わせる事をお許しになることもあるのです。それが後の日に、もっと大きな祝福が注がれます。

執着する対象は人によってそれぞれ違います。それらに囚われてしまうと私達はどうしようもく不安な気持ちになったり、恐ろしさを感じてきてしまうかもしれません。しかしながら神様の厳しいお取り扱いを通りすぎる時に私達は本当に自由にされていくのです。神様の祝福に預かる事が出来る者に変えられていく事が出来るのです。だから神様は敢えて一時期その御業を閉じるかに見える業をなさる時があるということを覚えたいのであります。

神様は私達を愛していない訳ではありません。愛していてなお苦しみや痛みの中に私達を置かれるのであります。神様は私達に祝福を与えんが為に敢えてその苦しみを許す事があるという事を覚えてください。聖書には『神はその愛する者を懲らしめ・・・・』と記されています。神は愛していないからではなく、愛するからこそ苦しみを与える事があるのです。ですから『訓練と思って耐え忍びなさい』書いてあります。

神様はあなたの内にもその様な訓練の業をなさっている。どうしてこんな事があるのだと、憤ったり、イライラしたり、思ったりするがあるかもしれませんが、その中に神の御手がある、神がもっと多くの祝福と実を結ばせる人生に導こうとしているということを受け取って頂きたいのであります。

更なる祝福へ

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」ヨハネ15章1〜2節

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木であなたがたは、枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れてはあなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ15章4〜5節

神様と私達の関係は農夫とブドウの木に例える事が出来るというのです。そして多くの実を結ぶためには刈り込みをしなければならない。そうしなければ、蔓がどんどん伸びるでけで実は結ばないのです。神様は私達が豊かな実を結ぶ者となるために、敢えて痛みを伴う、血が出る事を分かっていながら、その痛みを許す事があるのです。何故ならば、そうでなければ、そこを乗り越えた大いなる祝福にいたる器となることが出来ないからなのです。私達はその痛みの中で留まるということが大切です。「痛い、苦しい、辛い」。

正直に神様に申し上げる事は何も問題がありません。でも、誤魔化す事でもなく、逃げる事でもなく「そこに留まる」。あなたが出遭う様々な痛みや困難、そこにおられる神を見上げて頂きたいのです。神様はそこを乗り越えた時に大きな祝福をもたらして下さるということであります。神様のご訓練から逃げ出さないで、そこに留まる。その時に神様は私達を通しても豊かな豊かな祝福の実を結ばせてくださるという事です。

辛くなると私達は逃げ出したくなってしまいます。しかし神様にあっては苦しみが通り過ぎた時にこそ、祝福が与えられる時であるのです。神様がその困難を乗り越えさせて下さる時に、気が付くと私達には平安な義の実が結ばれているのです。神様は私達に

『あなたの今持っている執着している事を委ねなさい』と導いているのではないでしょうか。神様はもっと大きな祝福をそこに注ごうとしている。その神の真理にしっかりと目を留めていきたいと思います。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」黙示録3章19節

神様はヤコブやヨセフを嫌っていたのではありません。特別に愛しておられたのです。だからこそ神様は二人に苦しい試練を許されたのであります。こうして彼等は豊かな実を結ぶ者になっていった訳であります。神様は同じ様に私達にも様々な出来事を許されます。それはその事を通して主の前に整えられる為に、或いは熱心に悔い改める為に主の訓練を受けて義の実を結ぶためであります。

「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3章20節その苦しみの中にあって、『神様どうぞ私の心の王座に来て下さり、この苦しみを耐えさせてください。この困難を乗り越えさせてください』と共に祈っていく者とされていきたいと思います。その時に私達に豊かな報い、豊かな祝福をきっと注いでくださる。この事をしっかりと待ち望んでいく者とされていきたいと思います。