「キリストにある成長」

1999年12月26日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカによる福音書2章39〜40節
牧師 吉田耕三

「さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」ルカ2章39〜40節今日はルカによる福音書2章39〜40節から、『イエス・キリストの成長』、そしてそれに伴う「私達の成長」という事を、共に教えられていきたいと思います。

イエス・キリストの成長

今までクリスマスの話をしてきました。イエス・キリストは特別な生まれ方をしました。そしてどの様に育っていったかと申しますと、何のことはない、私達と同じ様に育っていったのです。赤ちゃんの時にはおそらく、お母さんのおっぱいを飲み、段々、段々と大きくなっていった事だと思います。そして非常に順調に育っていったという事が言えるでしょう。

「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」ルカ2章52節

「神の子供であったから」といえばそれまでかもしれませんが、キリストは成長して、なお謙遜であり、なお柔和であり、見事に成長していったことが記されているのであります。今日第1に私達が知る事は、実は神の子供のイエス・キリストが、最初から完全であったのではなく、「日々に成長していった」という事なのです。そればかりか、

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」ヘブル5章8〜10節

とまで聖書は語るのであります。神の子供として生まれたイエス・キリストが苦しみによって、従順さを学んだというのです。彼は神の子供なんだから、これ以上変えられる必要はないのではないか。いやそうではない、イエス・キリストさえも日々の様々な出来事を通して成長していったのです。

キリストに出会った私達の成長

ともすると、私達は自分がそれなりのレベルに達すると、(私もまあまあかな)等とつい慢心して、そこに留まってしまう事があるのではないかと思います。即ちこの救いというものがある程度判ってきます。多くの人にとってイエス・キリストの救いを味わう、これは人生の最大の出来事と言えることが出来るのではないでしょうか。

確かにキリストとの出会いというのは、私達に大変な事を多く起こします。革命的な事を起こします。

『救い』は本当に素晴らしい事です。キリストと出会う時にその人の人生が大きく変わります。闇が光に、苦しみが希望に変わっていきます。でも、それで十分ではなく、日々そこから更に成長させて頂くんだという事を忘れてはならないと思うのであります。

しかし神様が私達を日々新たにしよう、成長させようと思っても、私達が『いえ、結構です。間に合っています』といえば、成長できないのです。でも、「私にもその様な日々の新しい命があるのなら、私にもあずからせてください」と神様に向かっていくならば、神様はその恵みを日々に増し加えてくださるのです。

恵みのうちの成長

私達は成長していく事が求められている、いや成長していく事が出来るという事が判っていただけたかと思うんですが、問題はどのようにしてかという事ですね。

直ぐに考えることは、「聖書を読む」、「祈ること」、「教会に来る」、「人々に証しする」、などと沢山出てきますが、全て大事な事なんです。必要な事なんですけれども、でもですね、皆さんがそれらをもし修行の様にしているのであれば、あまり成長にはつながらないという事をお話させてもらいます。

でも勘違いしないで下さい!是非聖書を読んで欲しいのです。是非お祈りして欲しいのです。是非教会にきてほしいのです。色々な人に証しもしてほしいのですが、それが修行として行っているのであるならば、あまり意味がない。その努力の結果として救われるのであるならば、あまり力にならない。聖書がいっているのは、恵みに成長しなさいと言っているのです。

恵みに成長するとはどういうことでしょうか?『恵み』というのは、もともと「与えられる資格のない者に与えられる賜物」のことを意味します。努力ではなくて、神様の赦しの恵みが私達を満たしてくださる。故に、「こんな私も神様にお仕えしていきたい、神様の事が判りたい」そうなって聖書を読むのは大いに結構です。しかし、もし「聖書を1日何章読めば、きっと偉い人になれる」などと、修行の様にやっても、成長には結びつかないのです。

恵みを知って変えられた者の心

聖書から、別の言い方をしましょう。ルカによる福音書7章37節に、遊女、現代で言えば売春婦で暮らしていた、女性の話が出てくるのですが、その町のシモンという人の家にイエス・キリストが行った時に、彼女もその家に行きました。彼女は、行けばシモンの家の者から「汚らわしい。どこかに行け」と言われ、さらに町の人々から、嫌われ、辱められ、馬鹿にされるのは分かっていても、イエス・キリストの元に来たのです。

そして彼女はキリストを見るなり、嬉しさと感謝で涙を流し、自分の涙でキリストの汚れた足を濡らし髪の毛で汚れを拭ったと書かれてあります。そしてキリストの足に口づけして、香油を塗ったのです。普通、香油は頭に塗るものだったのですが、彼女は、

「自分はキリストの頭には香油を塗る資格はない。せめて・・」

と思い足に香油を塗りました。その時にイエス・キリストは「この女の多くの罪は赦されています。なぜならこの女は多く愛したからです」と言っているのです。これはどういう意味でしょうか?彼女はイエス・キリストによって、自分が赦され、愛されているその事をはっきり知ったのです。人から嫌われ、汚らわしいと言われている自分が愛されていると分かったのです。そしてキリストに何かの感謝の気持ちを表したいと、それが足を拭う行為、足に油を塗る行為であった訳です。これが恵みを知った者の心なんです。

これが分かる時に、「なんとかしてこの神様にお仕えしていきたい、従っていきたい」。そんな気持ちに変えられる訳ですよね。そしてこの恵みに成長しなさいというのです。あなたがどんなに汚れた者になろうと、醜い者になろうと、ひどい者になろうと、神は私を見捨てない、この私をなお神は守り、愛し、支えて下さっている。この事を私達が受け取れば受け取る程、私達は恵みに成長していく。そしてどんどん、どんどんこの神様の為にも、人の為にも仕える事が出来る。

こんな私が愛されている!!」という思いは、自然に、「こんな私が受け入れられている、ですから隣人も受け入れさせてもらいたい、愛する者にされていきたい!!」こんな思いに変えられていくわけですよね。私達はこの恵みを十二分に味わうことであります。こんな私が愛され、赦され、受け入れられている。いかがでしょうか?皆さんこの恵みが日々新たになっていますか?「この恵みに成長しなさい。その時あなたがたは、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長していくことができる」

とあるのです。皆さんの到達するところはキリストなのです。このことを知ったならば、どうして私達が(もう判った)という所に留まっている事が出来るでしょうか?私達も生涯かけて主の御姿に変えられていく為に日々新たに、新たにこの恵みを受け取っていくべきではないでしょうか?そして我等のうちにもキリストの似姿が実現されていく者とされていきたいと心から願うのであります。