2000年1月2日 日曜礼拝メッセージ
申命記8章1〜20節
牧師 吉田耕三
元旦礼拝では、『行け、その地を所有せよ』というテーマで学ばせて頂きました。神様はイスラエルの民に対して、カナンという地に入る前に、『もうわたしはその地を与えている、渡している。だから信仰を持ってその地に進んで行きなさい。そうすれば必ずあなたがたは所有できる』とこの様に言われた訳でありますが、彼らはその言葉を受け取るのではなくて、信頼する事が出来なかったのです(不信仰のゆえに)。その結果として約束の地カナンに入る事が出来なかった。不信仰、不信感になって滅びるのではなくて、信じて神の栄光を共に仰ぐ者とならせて頂きたいと思った訳であります。
困難の中での主からの恵み
「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる」申命記8章1節
イスラエルの民に対して神様は、「あなたがたは主の戒め、主の命令を守りなさい。そうすればその地を所有する事が出来る」とこう言った訳であります。私達もそういう意味で神様の恵みをしっかりと受け継ぐ者とならせていただきたいと思うのでありますが、具体的に私達はどのようにしたら良いのでしょうか?
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩篇103篇2節
という聖書の言葉があります。私達は本当に忘れっぽい者でありまして、神様がなしてくださった事を直ぐに忘れてしまうのですね。でも少し時間を取って思い出してみてください。どうでしょうか?考えてみると私達は結構恵みを頂いているんです。ところが少し時間が過つと、「そんな事もあったかな?」なんて忘れてしまっている事があるのですね。私達は"主の良くしてくださった事"をしっかりと覚えていきたいと思うのです。
またさらにこで言わんとする事は何かといいますと、神様は「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心の内にあるものを知る為であった」とこう書いてある訳であります。神様は一方的に恵みから恵みへ、素晴らしい祝福だけを与えてくだされば良いのに、そうではなくて色々な苦しみや困難や戦いを敢えて許されている。「何故?」という疑問が出てくるかと思うのです。
それは神様は私達の心を、心の内にあるものを教える為に、敢えて苦しみの中に置かれる事があるという事を思い起こさなければならない、という事です。私達は自分が順調な時には自分がそれ程悪い人間とはあまり思わないのではないでしょうか。皆さんは自分を一般的な人と比べるとどの位だと思いますか?正直な所、自分が「下の下」と思っている人はあまりいないのではないでしょうか。
神様は私達を「神様の御救い、神様の恵みの中に歩ませる」為に敢えて私達の本当の姿を示す事がある訳であります。それが必要になってくる訳であります。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ書17章9節)
神様は様々な出来事を通して私達の中にある醜い姿を私達自身に見せる訳であります。そうでなければ、私達は神にすがって生きる、または神と共に生きるという必要性を感じないのであります。
自分の弱さの中から見えてくる神の姿
私達は自分が弱くされないと本当に支えられているという事を気が付かない事が結構あるのではないでしょうか?与えられていますとそれが当たり前になってしまいます。"生かされている"私達はその中で色々な醜さや弱さを示されて、弱さを知り、神様に寄り頼む事、『神によって生かされている』事を知る様にと導いておられる訳であります。人間には、直ぐに恵みに慣れてしまうという傾向があるのです。最初は驚き、感動した事が2、3日続きますと普通になってしまい、その事が喜びでもなく、感謝でもなくなってしまう訳です。
泥水を暫くの間何もしないでおきますと、泥やほこりが下に沈み、水は透き通ったきれいな水に思いますね。私達も何か問題がありますと、イライラしたり、怒ったりと色々な事があるのですが、事無きを得て静かに安定してきますと、あの時は自分は少しおかしかったんじゃないかなと思ってしまう訳であります。
しかし神様は「本当はあなたはそのような清い者ではない」という事を示す為に、敢えて皆様の生涯の中に時々棒で掻き回すごとく「本当のあなたの姿はこれだよ。こんなに醜く、弱く、もろいものですよ」と見せる事があるように思います。
「神様は救って下さったのだから、ずっと楽にやってくれれば良いのに」と思いますが、その様な訓練が成されなければ私達はたちまち神様から離れてしまう。苦しい時には『神様、神様』と求めるのですが、あとは自分でやりますからと言っています。だから神様は時々棒で掻き回す事があるという事なのです。私達はその様な事柄を通して、自分の弱さと、本当に守られているという事をもっともっと知っていくことが大切です。そして神様はその様にして私達を訓練しておられるのです。
「愛」ゆえの訓練
「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない」申命記8章5節
親が子供に対して真っ直ぐな子供に育って欲しいと願う様にと様々な訓練をします。神様もまた私達を訓練します。「神様を信じたのにこんな事が続いたら嫌になってしまう!」というような出来事の背後に神様のご訓練がある事をしっかりと心に留めて、覚えていきたいのであります。何故ならば神様は私達をその様に、守り導いてくださると思うときに、私達は神様に従うことが出来るからなのです。神様は訓練や戦い、困難の中を通らせる事がありますけれども、それは私達を良き道に導こうとしているからだという事を知って頂きたい。
良き地に導く為に
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)
神様は確かにあなたを良き道に導き入れようとしているという事をしっかりと受け取って下さい。そしてこれが私達が神の栄光、神の恵みにあずかるための第1ステップです。でも現実の生活をみますと、「これが良き道とは思えない」と、確かにその様に思える事はあるかもしれません。しかし知っていただきたいのは神様の道と私達自身の考える良き道というのは違うことが多いのだという事なのです。そして私達が願っている通りの事が起きないかもしれません。神様は遠大な御計画の中でこの瞬間だけで見ると「嫌だな」と思う事でも、長い目で見る時に「良かった!」という事をして下さるのです。今は苦しいかもしれませんが、その事を祈りながら受け取っていく事が大切ではないかなと思うのであります。けれども、私達が本当にこの神様に信頼し、従っていく時にあなたは確かに恵みを受けるようになる。でもその時こそ気を付けなさいとも言っているのであります。
私達は何か良いことがあったとして、それを自慢してしまいますと、そこで神様を忘れてしまうのです。神様無しに強くなれるのです。もう神様無しでも結構やっていけると思ってしまう。『私が、私が』と言い始める時に、様々な困難に陥っていく事は当然でありましょう。そして私達はいつしか神の恵みからもどんどん、どんどん離されていってしまう。私達は全ての祝福の栄光を主に帰する。良き事があれば「この様にさせて頂いた事を主よ感謝します。自分にこの恵みが与えられた事を感謝します」と、神様に帰する事が大切です。その様な時に神様はいつでもその恵みに導いてくださる訳であります。
「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築きあげる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおり果たされるためである。」(申命記8章18節)
「主を心に据えなさい」とはどういう事かと言いますと、主を心に覚えなさいという事ですね。自分の利益や得ばかりを考えて、私達の為に命を捨ててくれたイエスの事を誰も考えてはいない。私達は本当に主をしっかりと心に据え、主の御言葉を心に据え、自分の力ではなく神様の力によりさせて頂く。主を心に据えていく事により、神様の恵み、栄光を今年頂かせてもらえることが出来るでしょう。そして『その地を所有せよ』と神様はおしゃって下さっているのですね。神様がイスラエルの民を導いてくださって様に、私達自身も導いて下さっている。これからも神様が私達を良い地に導こうとされている。それゆえに神様を愛し、従っていこうという決意を新たにお捧げしていきましょう。