2000年1月9日 日曜礼拝メッセージ
創世記38章1〜30節
牧師 吉田耕三
ヤコブの次男ユダ
今日の聖書の箇所は、ヨセフから場面を移して、ユダにスポットがあたります。アブラハム、イサク、ヤコブと三世代に渡って神の民として神様は導いて下さった訳ですが、ヤコブは11番目の子供ヨセフを偏愛しました。その結果として兄弟仲が悪くなってしまい、遂にはヨセフは売り飛ばされてしまう。或いは殺される危険さえあったという状況になってしまった訳です。そういう状況を見て、次男ユダは少し嫌気がさしたのではないかなと思うのです。
彼は兄弟達の中では比較的穏健な性格であったのが文章よりみてとれます。このユダが兄弟達と近づきたくないという気持ちがあったからでしょうか、そしてユダは本当に醜い面をもった兄弟達から少し自分を遠く離したい思ってのでありましょう。自分なりに良きものを築き上げようとして家族を作ったのだと思います。ところがどうだったでしょうか?自分の思いで作り上げていった家族はどうなったでしょうか?
「しかしユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。」創世記38章7節
たまたま悪い事をしたというのではないのです。エルは絶えず、絶えず神に対して背く事を行い続けていたという事です。神の怒りがこれ程にあるというのは、そんなに聖書に出てくることではありません。ユダとしてはそれなりに良きものと思っていながら、実に彼は反対の結果の家庭を見るしかなかった訳であります。
更にその弟を見ますと、古代イスラエルではよく見られた習慣で『リブラアト婚』という慣習がありました。長男に子供ができずに亡くなると、その長男のお嫁さんを次男が娶るのです。そして最初に生まれた子供はその長男の子供となるのです。ところが弟オナンは、同じ兄弟の子供が出来るというのは嫌なんです。そこで子供が出来ないようにしていたというのですね。あの兄弟間の醜さが嫌だと思い離れたユダ自身の家族が、自分の兄弟達と全く同じか、それ以上に醜くなってしまっているという現状を見る訳であります。
祝福の系図に加えられる
ユダは、「兄弟達に問題があり自分には何の問題もない」と感じ兄弟達から離れていった訳ですが、実はその問題はユダ自身の中にもあったわけであります。ですから、ユダ自身がその事において解決されなければならなかった。本当の意味で解決しようとしなかったユダは、却って自分が思っていた所よりも、もっとひどい状態になってしまったという訳です。実にこの様なユダの失敗、過ちにも関わらず、このユダこそが、アブラハム、イサク、ヤコブの神の祝福の系図を引き継ぐ者、受け継ぐ者になっていったのです。
ヤコブ自身が死を目前にして語った預言の中に『王権はユダを離れず・・』(創世記49章10節)とあります様に、ユダこそが、神の祝福の本筋として実は用いられていくのであります。
こんな一見すると「エッ?」という歩みの中に、ユダが神の祝福を受け継ぐ者とされていったのは驚きであります。神様は私達が立派だから、私達を祝福してくださるのではない。私達がよき行いをするから、私達を愛してくださるのではない。神ご自身が憐れみ、祝福してくださるのだという事をしっかりと覚えさせていただきたいのであります。
聖書というのは立派な人の為にあるのではない。本当に弱さを感じている、自分はダメだと思う様な者の為に記されているのです。イエス・キリスト自身がこう語っています。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」マタイ9章12〜13節この様な神様の憐れみの印の一つがユダの出来事といえる事が出来ると思います。
ユダのその後
二人の息子が神様を怒らせたので殺されてしいます。ユダにとっては大変悲しく、辛い出来事をでありました。「リブラアト婚」によりますと、お嫁さん(タマル)は3番目の息子の妻になるはずなんですけれども、最後の息子と一緒にさせたくないという気持ちがあったようです。でもその気持ちは言わずに騙して、「成人したら結婚させるから、それまでは実家に帰っているように」といいました。
数年後、三男シェラが成人してからかなり時間も経っている。本来なら、舅ユダが自分とシェラを結婚させてくれるはずなのにしてくれない。タマルも舅がシェラと結婚をさせるつもりはないのだという事が分かった。彼女は一つの決断をします。彼女は遊女の振りをして、舅ユダによって子供を得ようとした様であります。
遊女は普通お金や物を代償として要求する訳でありますが、彼女は最初から印形注1やその他の物を求めた訳であります。そしていざという時の為にユダであると分かる持ち物を自分の手でにぎりしめていたわけでありますね。
この事はユダに自分がとんでもない事をしているのだという事をはっきりと悟らせたのではないかと思うのであります。そして「相応しくない自分」というものに神様から光をあてさせられた訳であります。後にユダがこの様に言っています。11男のヨセフとのやりとりで濡れ衣を着せられているのですが、やっていない事も含めて罪の告白をしているのです。
謙遜にされた晩年のユダ
「ユダが答えた。『私たちはあなたさまに何を申せましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。』・・」創世記44章16節
ユダが直面した困難は、策略による濡れ衣でした。末の弟ベニヤミンがヨセフの杯を盗んだという事が露呈して追及されている場面で、ユダはこのような言葉を発したのです。本当に盗みをした訳ではなく、濡れ衣を着せられていることが分かっていました。ユダは敢えてここで「神が私達の咎を暴かれたのです」と言うのです。
要するに「たとえこの事においては盗みはしていないけれども、私達はその様に醜い、汚れた事を平気でしてきたのです。どの様に言われようとも何の弁解も出来ない者です」と告白する謙遜な者に変えられていったのであります。ユダは苦しみ、痛みを通して自らの姿が照らされ、神が私を暴かれた、人のせいにばかりしていたけれども、神が私の本当の姿を暴かれ、そして謙遜な姿に変えられていったのであります。
ユダの生涯を見る時に神様の祝福を受け継ぐ資格がどこにあるのかと思うわけでありますが、神様はユダを憐れみ、ユダの陥った失敗を通して、なお本当に主の器に変えようとなさっていたという事をここに覚えていきたいのであります。神様はこのユダを憐れんでくださったように、私達一人、一人をも憐れんで下さっているのですね。
「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」ヘブル人への手紙13章5節「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」テモテへの手紙第22章13節
神様は私達が素晴らしいからではなくて、私達が神様からもはや恵みを頂く資格がないような者であったとしても、私達を子供として受けとめてくださったが故に、整え、憐れみ、導き、いよいよ恵と憐れみをいよいよ注ごうとして下さっているのであります。あなたはこの憐れみの中に生きておられるでしょうか?
ユダも決して誉められるような者ではありません。けれども、神様はこのユダを神の系図の中に加えて下さいました。それは同じ様に様々な弱さをもっている私達にもまた神の恵みが注がれる事を教えられる為ではないでしょうか?神様はあなたも憐れんで下さいます。この主の恵みの中に生かされていきたいと思います。
そしてもう一つ。このユダの姿ですね。「あの女を引き出して焼き殺せ」といった言葉を留め置きたいと思うんです。私達は人に対しては平気でこの様にする者ですよね。人の弱さをみては「あーしろ、こーしろ」とですね。人の弱さを見て責める者ではないでしょうか。でも一旦私達が自分を見るとどうでしょうか?私達も人を責める者から人を許すものに変えられていきたいものであります。
私達は人に対しては厳しいが、自分に対しては結構甘いのです。主の前に悔い改め、かえって主の憐れみ、「こんな者が赦されている、こんな者が愛されている、こんな者が受け入れられている、こんな者が祝福の基としておかれる」と、この恵みに留まって歩んでいきたいものであります。ずれた道、神様から離れた道に歩んだユダでしたけれども、神はユダを祝福の系図に加えて下さった。様々な弱さや愚かさを犯す我等でありますけれども、なお神様は祝福の基として下さるのです。この恵みにしっかりと歩んでいく者とされていきたいと思います。
※注1円筒形の石や木に絵や文字が彫ってあり、粘土板の上を転がすと、スタンプの様に絵や文字が浮き出る仕組みになっている。一人一人模様は違うので個人を判別できる