「主が共におられたので」

2000年1月16日 日曜礼拝メッセージ
創世記39章1〜23節
牧師 吉田耕三

聖書の中には様々な方の生涯が出てきます。今日のこのヨセフの生涯。彼は父親に偏愛された結果として少しワガママになってしまった様でありますし、或いは人の心を察することが出来ないようなタイプの人間になっていた様です。そして彼は兄弟に売られてしまった訳です。危うく殺される所だったのですが、すんでのところで奴隷としてエジプトに売られる事になるという経験を通った訳であります。しかしながらこの経験こそが彼にとって大切な時であったということを後の姿を見る時に分かる訳であります。彼はエジプトの宰相(首相)の立場に立つ事となります。それは正しく、多くの悲しみ、苦しみ、痛みが彼を育てていったと言う事が出来るかと思います。

主を認めよ

この当時"奴隷"というのは、言葉をしゃべる道具と思われている時代ですから、明日の命だってどうなるか分からない、非常に危うい所であります。皆さんが同じ立場なら、どう感じられるでしょうか?「何と悲しい、何と辛い、何と虚しい自分の人生か」と思うのではないでしょうか。そして人を呪い、兄弟を呪い、ひいては神を呪う人生になるのではないでしょうか。ところがヨセフの姿を見る時に、彼はそうはならなかった様であります。『主が彼とともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の……』と書いてあります。彼はその様な中にあっても神を見出していた。神を認めていたという事をここに教えられる訳であります。

「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3章6節ヨセフの生涯の秘訣はこの言葉にあったのではないかと思うのであります。いついかなる時でもそこに主を見た。良き時だけではない、悪い時でも神を認める。これがヨセフの秘訣であった様に思うのです。

それまでは親の庇護の元に、「可愛い、可愛い」何をやっても許され、守られるていました。しかし彼は父親から引き離され、何も頼るものが無くなった。この孤独の時、こここそが本当に彼の信仰が養われた時ではないかと思うのです。この時に共におられる神様を見出し始めたのではないか、そしてこの神の前に祈る者になっていったのではないかと思うのであります。だからこそ、神様はヨセフの生涯を豊かに、豊かにしていって下さったと言うことが出来ると思います。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル人への手紙12章11節

試練と言うのは悲しいものです。けれども、これが私達を養い育てるという事なのです。結果としてヨセフは苦しみを乗り越え、遂にはエジプトを治める者となっていった。私達も試練に遭った時にヨセフの考え方を身につける事が出来たらなと思うのであります。

主の前に

神がヨセフと共におられたので、彼のやること全てが祝福さました。そして主人は彼に全幅の信頼を寄せる様になりました。何もかもが万々歳という状態で、悲しみが益に変えられました。神を見た時に、まさしく神はその道を真っ直ぐにされたという事が出来るでしょう。ところが中々良いことは続かないですね。とんでもない誘惑の手が彼に伸び始めました。主人ポティファルの妻が彼にいいより始めた。断ると何があるか分かりません。折角得た自分の地位も危うくなる事があるでしょう。かといって罪に陥る事はとんでもない事であります。ヨセフが誘惑に打ち勝った一つの理由は、主人に対する誠実です。「主人がこんなに自分を信頼してくれているのに、主人を裏切る事はできない。」これが彼の考えでありますが、それは何の為かと言いますと、

『その様な大きな悪事をして、神に対して罪を犯す事が出来ましょうか』創世記39章9節bと言って神の前にきっぱりと誘惑を拒否した訳であります。私達も信仰生活の中において誘惑に打ち勝っていく一つの秘訣がこの意識です。"神の前"にという意識をどれだけ私達が持っているかという事が大切です。

私達は人に分からなければいいやと思う部分が結構ないでしょうか?人の目は誤魔化す事は出来ても、人にはどんなに言い訳が出来ようとも、神の前に私はその様な事は出来ないと言っています。私達も"神の前に"という意識をもっともっとしっかりと持たせて頂きましょう。人を騙すことは出来ても、神は全てを御存知なのです。

苦しみの中でも主を認める

ポティファルの妻は拒否されても毎日のようにいい寄って来て、ヨセフを誘惑していました。彼は拒み続け、恐らく御主人にもこの事は言っていないようであります。ところがこんなに誠実に、こんなにきちんと歩んでいるヨセフが、とんでもない罠にはめられてしまう訳であります。ヨセフは牢獄にいれられてしまいます。彼はこの様な苦しみの中でなお、神を認めました。

『あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。』箴言3章6節それ故にヨセフは神の祝福の中に歩み続け、遂に監獄の長は、彼に監獄の中を自由にさせたと記載されています。

本当に多くの苦しみを通して、ヨセフは"人の心"というものを知ったのではないでしょうか?この訓練の中で彼はあのエジプトの中で宰相として人々を導く心を持った人物に整えられていったと言うことが出来るのではないかと思います。

私達も生涯の中に様々な苦しみや困難に出会う事があるでしょう。そんな時に共に覚えたいのは、『あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。』箴言3章6節aこの御言葉です。たとえどんな事があっても、神がそれを良しとして下さっている。その事を認めていきましょう。『そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる』箴言3章6節b

これが約束であります。私達がそこに主を認めるか否かです。「自分としては『?』と思うけれど、でもそこに主よあなたが居られると信じます。」神様を認める時に主は道を真っ直ぐにして下さるという事なのです。私達が出遭う様々な苦しみの中で、「これは将来の訓練だ」と是非覚えたいのであります。私達が出遭う苦しみを主の訓練として、受けとめる決意を新たにしていきたいと思います。

与えられた主の計画

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げ—それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29章11節「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」エレミヤ29章7節

自分の敵の為に繁栄を祈れと言っているのです。「えっーッ」と思うかもしれませんが、遣わされた何処においてもそこの繁栄を祈れ神はそこを通して後の日に祝福してくださるからだと語っているのであります。神様はあなたの為に計画を立てている。災いを与える計画ではないく、平安を与える為の計画、将来と希望を与える為の計画です。もしこの3つのポイントを私達が絶えず、絶えず覚えていくことが出来るならば、私達はヨセフと同じ様な神の祝福の中に置かれるのだという事を覚えておいて頂きたいのあります。

もし本当に私達が主を認め、主と共に歩む決意を現すなら、神はその祝福に導いて下さると約束して下さっているのです。この1年間、この神の約束を実際に体験していくものにされていきたいものです。