「主のきよめと訓練」

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2000年1月23日 日曜礼拝メッセージ
創世記40章1〜23節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

前回はエジプトで侍従長ポティファルの妻により、ぬれ衣を着せられ、牢獄に入れられてしまったヨセフの出来事を通して、『あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる箴言3章6節』という事を御一緒に学ばせて頂きました。本日は後の日に彼がエジプトの首相として、素晴らしくもちいられていく過程、神様のご訓練の業を見させていただきたいと思います。

主に仕えるように主人に仕える

ヨセフは濡れ衣で牢獄に入れられていましたが、エジプト王パロ付きの献酌官長と調理官長の二人が王の怒りにふれ、牢獄に入れられて来ました。彼等は非常に位の高い人でありました。ですからどうでもいい様に扱う訳にはいきません。侍従長は彼等の世話を誰にしようかと考えた時に、ヨセフを付き人選んだのです。侍従長とはヨセフを牢獄に投げ込んだその人です。その人がヨセフを高官の付き人にしたというのですから、不思議だなと思いませんか?ここにおいて私達は一つの教訓「ヨセフは何時でも、何処でも主の前に忠実に歩んだという事」を学ぶ事ができるのではないかと思うのです。本来死罪(濡れ衣ではありましたが)であったにも関わらず、この牢獄の中でもまた神の祝福を頂いて、監獄長は彼に全ての囚人を任せ、侍従長は国の高官である彼等が牢獄に入れられた際にはヨセフによって彼等の世話をさせたということであります。

「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて、真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」エペソ人への手紙6章5〜7節

まさしくヨセフはこの歩み方をしていた様に思うのです。その牢獄の中にあっても、いつでも親切に優しく、熱心に仕えた。だからこそ彼はこの様に信頼されていったのではないかと思うのです。人に仕える様にではなく、神に仕える様に。あらゆる人に対して私達は仕えていくべきだという事です。それが神によって祝福をいただく秘訣だということであります。

栄光を主に

二人の高官が同夜に夢を見ました。ヨセフは二人の顔色が悪いのを気遣って、理由を尋ねます。2人はヨセフにこたえます。『私達は夢をみたがそれを解き明かす人がいない。』

さてこの時のヨセフの言葉に彼が受けた訓練を見るのです。私達はともすると、神の栄光は自分のもの、自分の栄光も自分のものとしてしまう事があるのではないでしょうか?カルビンという人が『恥は我もの、栄光は主のもの』とこう言いました。けれども私達は反対ですね。「恥は主のもの、栄光は我がもの」と私達は自分の方に栄光を帰そうとするのであります。ところがヨセフはきっぱりと、「それを解き明かすのは神のなさることではありませんか」と断言しているのです。誉められるべき方は神様なのだという事を知っていた訳であります。

彼は『それを解き明かすのは神のなさる事』と言い、だから私には何も出来ませんというのかと思ったら、それを私に話してくださいというのです。面白いと思いませんか?ここにも彼が受けてきた訓練を見るのです。「これは神がなさる事で私には出来ない」という事を知ってはいましたけれども、同時に「神は私にこの恵みを下さる、神は私に教えて下さる」という信仰の確信を頂いていたと思うのです。

「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」ピリピ人への手紙4章13節

自分の力ではなく、私を強くして下さる神様によってならどんな事でも出来るのです。これがパウロの確信でもあり、ヨセフの確信であったのではないかと思うのです。だからこそ、それは神のなさる事ではありませんかというと同時に私に話してくださいという事も出来た訳であります。

主にのみ依り頼む

しかし、夢の解き明かしをした時にヨセフの中に弱さが出た様であります。彼はこの時に神様以外のものに対して、頼る姿を見る様な気がするのです。明確に書いてある訳ではありませんが、「濡れ衣なんだから、出せるようにして下さい」と言ったのです。しかし神様はこの事を良しとはされませんでした。神様がもう少しヨセフを訓練する必要があると判断されたのだと思います。ヨセフは神だけに頼る所にまだ立ちきっていなかった。もっと神様の素晴らしい器となる為に、神だけに頼る者になる為に彼に訓練が必要であったのであります。

神様は本当に主にのみ依り頼む者を通して御力をあらわして下さるのです。けれどもその事を怠る時に、私達は十分に栄光をあらわす事が出来なくなってくる訳です。もちろん私達はいつでも完全というわけにはいきません。でも神様は少しづつ、少しづつ、より多く、より豊かに主に拠り頼む者となるように訓練して下さっている事を覚えて頂きたいのです。

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」箴言29章25節

私達はついつい目で見える物や人間等を頼りにするのでありますが、本当に頼りにするべきお方は真にこの天地をお造りになった神様である。この事が本当に学ぶ事が出来るときに、私達が大きく成長していく事ができるのです。

試練の中から忍耐を学ぶ

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。」ヤコブの手紙1章2〜4節

私達が出遭う様々な試練や困難、それを喜べというのです。試練の中で聖書の御言葉が思い出されて来る時に、私達に少しづつ、少しづつ忍耐というものが出てくるのです。その事を信じたり、信じなかったりとしてしまうのですが、でも「よし!信じてみよう!」と決心すると忍耐が生まれてくるのです。そしてこの忍耐こそが私達を何一つ欠けた所のない完全な者とする原動力だというのであります。

私達も訓練を通して神様に用いられる豊かな者にされていくのです。受けた様々な試練、苦しみを訓練として受けとめていく信仰を持たせて頂きたいと思います。神様は本当に私達に良き事を行ってくださるお方です。その事をしっかりと受け取って行く時に私達は訓練として物事を見る事が出来ます。そしてどの様な情況にあっても、忠実に、真実に仕えていく事が出来る。そして確かに神様はそれを見ておられ祝福を与えてくださる。さらに神様の訓練を頂いて神の時を待ち、神にこそすべての事ができるという信仰に立っていきましょう。神様はその時に私達に忍耐を養い豊かに主の器として育ててくださるのであります。この恵みに共に与っていきたいものです。