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「主の御手」

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2000年2月13日 日曜礼拝メッセージ
創世記42章1〜38節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

私達が様々な人生の出会いの中で、それに対してどの様な対応をするのかということが、その後の人生に大きな影響を与えるものであります。

夢の実現

神様はヨセフに夢の解き明かし通りに、エジプトと近隣国に飢饉を引き起こさせた訳であります。エジプトにだけは食料あるという噂を聞き、周りの国から人々はエジプトのヨセフの元に穀物を買い求めにやって来ます。

ヨセフはこの時から心に「もしかすると神様はこの様な一連の人々として、自分の兄弟達も来るのではないかな?」そう思い浮かべる事があったかもしれません。何故かと言いますと、ヨセフが、実際にエジプトに来た兄弟達を見た時に、直ぐに『彼等』だと分かったのですね。多くの人が同じ様に来ていたと思うのですが、『自分の兄弟だ!』と見分けられたのです。兄弟の方は、「まさか売り飛ばした弟のヨセフがその様な所にいる」ことなど考えもしませんから、想像も出来ない事ではなかったかと思うのであります。

しかし、ヨセフは『お兄さん!!』と言って飛び出しはしませんでした。皆さん何故だと思いますか?ヨセフの立場になって考えると、自分を殺そうとし、売り飛ばした兄弟達が今目の前に来たのです。そんなに簡単に優しくはなれないのではないでしょうか?却って"あの時の罰だ"みたいな感情も出てくるかもしれません。でもヨセフはそれだけではなかったと思うのです。

「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。『あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう』」9節この様に言ったと書かれているのであります。どういうことでありますでしょうか?「見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ちあがり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が周りに来て、私の束におじぎをしました。」創世記37章7節

ヨセフは今、この夢を思い出したのであります。兄弟達は実際に自分を伏し拝んでいるのであります。「あぁ、やはり」と思ったかもしれません。しかしそれだけではなく、ヨセフは夢の後編もきっと覚えていたと思うのであります。

「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」創世記37章9節b

すなわち、太陽に相当する「父親」や月にあたる「母親」までがここに来るはずであると。そして、もしかしたら、奴隷として売られ、無実の罪で牢獄に入れられ、様々な苦しみ通して訓練を受け、今やエジプトの第2の位につく者となった事実を見る時に、神様の恐れ多いご計画というものを彼は考えていたのではないかと思うのであります。「神様は一体何を語り、何をさせようとしているのか?もしかしたら、こんなに酷い事をした兄弟達をも神様のしもべとしようとしているのではないか?」ですから、彼はその時に簡単に何かをするべき時ではないと思ったのでありましょう。却って『スパイ』の嫌疑を掛けました。

悔いのない悔い改め

ヨセフは兄弟達の「カナンに住む12人兄弟です。末弟はかの地に父と共にいますが、もう一人はいなくなりました」というこの言葉にますます怪しさを募らせる芝居をして、彼等を牢屋に監禁して入れてしまいます。それから3日間の監禁の後にヨセフは少し気持ちを変えた様であります。

ヨセフとしても父親も弟のベニヤミンもいる。父親も飢え乾いている。それをそのままにしておく訳にはいかないと思ったのでしょうか?ヨセフは兄弟の内一人だけを残して、後は帰し、彼等の飢えを助けてあげたいと思ったのでありましょう。さてその時に、兄弟達は何と思ったでしょうか?

「ああ、われわれは弟とのことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」21節人は「何故こんな事が?」と思う時に自分の歩んで来た、成してきた事柄を振り返る事がしばしばありますね。苦難こそが却って私達に真実な思いを呼び覚ます事があるのではないかと思います。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。」

コリント人への手紙第Ⅱ7章10〜11節a

自分達が監禁され、そしてシメオンだけが残される。この悲しみが、自分達が今までしてきた事を思い起こさせるのです。私達は、他人にやられた事や、他人にされた事はしっかりと覚えているのですが、自分がやった事は結構忘れている事が多いのであります。そして、その悲しみが完全ではないにしても、兄弟達に悔い改めの心を起こさせた様です。そしてそれが正に彼等が神の民として整えられていく備えとなっていったのではないかと思うのであります。

ヨセフは兄弟達がした事を悔いている。普通なら、この後出ていって、『私がヨセフです』と一件落着となるシナリオに見えるですが、実はそうではなかったのですね。なぜでしょうか?恐らく彼等が本当に神の民として整えられる必要、その自分の責任というものを或いは感じていたからではないでしょうか?彼等の悔い改めはまだ不充分であった。その為に敢えて続行したのではないかと思います。

神を見上げる信仰へ

私達は自己中心、自分中心、自分の事しか、自分の世界しか見られない。こういう考え方から、神を見上げる世界、こういう考え方が『悔い改め』です。方向転換して、神を見上げる、これが悔い改めの道であります。「主を恐れることは、知識の初めである。」箴言1章7節a「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」箴言9章10節

私達が自分たちのちっぽけな世界に留まってしまうのではなく、本当に神という方を見上げて、そこから物事を考えるようになっていく時に、私達に本当の知恵が与えられる。私達は自分中心の物の考え方しかない訳でありますが、そうではなくて、神の側から私達は見る時に、全く別の見方や考え方が出て来る訳であります。

コリント人への手紙第Ⅱ7章10節にありますように、『神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改め』に導くのだという事です。悔いのない悔い改めに導くのだという事。ただ悲しんでいる、罪責感ではダメなのです。

ヨセフの兄達が悔い改めに一歩近づきましたけれども、それは悔い改めではなく、罪責感に留まっている。本当の悔い改めは、"神をそこに認める"、同時に"赦しとしてのイエス・キリストの十字架"を見上げる事が出来る。そこに到ってこそ、私達の信仰は本物になっていくという事が出来るでしょう。

悔いの無い悔い改め。悔い改めには喜びと解放と勝利があるのです。悔い改めは苦しい、辛いものではない、却ってそこから私達を、喜びと希望に溢れさせていくものであります。罪責感に留まっていてはならない。その罪責感を赦す為に、掛かって下さった十字架。それ以外に救いが無い。それ以外に我等を清め、解放するものはない。だから十字架は我等を解放に導き、勝利に導く秘訣なのですね。

更に"神様に委ねる"。もし皆さんが全ての事を神様に委ねる事ができたならば、どんなに平安であるかと思いませんか?今思い煩っている多くも、こだわっているからではないですか?神は最善を成します。『神は善にして、善を成したもうなり』という御言葉があるのです。「神は必ずその様にして下さる!」と信じたら何ももう思い煩う必要はないではないですか。でも現実には私達は思い煩いの連続ではないでしょか?委ねていないからです。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

ペテロによる手紙第Ⅰ5章6〜7節

私達は委ねることが出来ない問題こそが、私達を苦しめているのです。私達はもっと『神は善にして、善を成したもうなり』というこの神様を信頼し、委ねていきたいと思います。神はあなた方の事を心配して下さるのです。この様な神様の祝福、恵みを味わっていく者とされていきたいものです。

「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。」マタイによる福音書5章8節と山上の説教の中で語られたように、私達の全ての偏見や不信仰を取り除いていくならば、全ての中で語っておられる神様が見えてくるのです。そして私達を最善に導く神様が見えてくるのであります。

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