「再吟味」

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2000年2月27日 日曜礼拝メッセージ
創世記44章1〜34節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

教会の事を別名『霊的イスラエル』という事があります。即ち、イスラエルが歩んだように、霊的に私達は同じ歩み・ご訓練を頂いているという事なのです。今日ここに現わされている姿、ユダ或いは兄弟達の中に、彼らが神の民として整えられていく姿を見るわけであります。私達もその姿を見ながら、共に主の僕として教えられていきたいと思います。

神があばかれたのです

前回彼等がエジプトに行った時に、弟を連れてこなければ、2度と穀物を買いに来る事は出来ないという事を告げられました。ところが父ヤコブは末子を手放したくない。ヤコブ自身も厳しい状況に追い込まれて、「これはいたしかたない」と悟ったのかもしれません。兄弟達は末弟ベニヤミンを連れてもう一度エジプトに下ったのであります。

43章では、末弟ベニヤミンを彼等の中に見つけたヨセフは、人質として残されていたシメオンも牢から出し、その兄弟達と共に自宅に招き、食事をしました。そしてみな無事で穀物を購入し、家路に向い始めたまさにその時に、後ろから追いかけて来られ、「あなたがたは、主人の銀の杯を盗んだ」と言われる訳です。この言葉を聞いた時に、「またか!!」と彼らの心は恐怖でいっぱいになったでしょう。しかし、彼等は身に覚えはありませんから、「何故その様な事をいうのですか?もしそれが私達の中から見付ったなら、殺されてもいい」と豪語しました。ヨセフの家の管理者が順番に調べていくと、末弟ベニヤミンの袋から杯が見つかります。目の前の袋の中に銀の杯がある。否定しようがありません。自分達がやった事ではない。でも最早言い訳が通らない事を悟った訳であります。

しかし、私達はこの事実を前にしたユダの答えの中に、彼の"信仰の成長"を、以前のユダと全く違う姿を見るのではないかと思います。まず第1に彼は「これは濡れ衣である」という事は明らかに分かっていたと思います。しかし、

「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。またなんと言って弁解をする事ができましょう。神がしもべどもの咎(とが)をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯をもっているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう」(16節)

と語るのです。兄弟達がやったのではない事は分かっています。でも"これを神があばいた"というのです。これは明かに以前、自分達がヨセフを嫉妬して、奴隷として売り飛ばしてしまったこと、彼が憐れみを請うても応えなかった罪を意識している事は間違いのない事と思います。今この事(盗み)をしていないけれども、神はこれ(ヨセフの事)を追求しているのだ。だからこそ、彼は何一つ弁解しなかったのです。これは本当に"罪"を悟った者の姿ですね。

私達が中途半端にしか罪を認めない時には、言い訳をしたり、弁解をしたりする訳であります。しかし本当に罪を悟った時には、多少違っていても、そんな違いは大した違いではない。私はその様な者であるという深い悔い改め。自分の罪を認める姿に変えられてくる訳であります。

苦しみを共に担う者となる

続けて彼は『私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう』と言います。以前は弟を売り払っても、何の気にもかけなかった。しかしながら、今やその罪をベニヤミン一人に負わせるのではなく、兄弟みんなで担うという者に変えられていった訳です。

私達は「人に責任をなすりつけたい。嫌な事は自分が受けるのではなくて、他の者になすり付けておきたい」と思うのでありますが、彼等はそうではなくて、共に苦しみを担う者にされていったのであります。ヨセフは「ベニヤミン一人を奴隷として残し、他の者は帰って良い」といったのでありますが、ユダは、「自分たちも奴隷となります」と言うのです。それに対してヨセフは、

「そんなことはとんでもないことだ。杯を持っているのを見つかった者だけが、私の奴隷になればよい。ほかのあなたがたは安心して父のもとに帰るが良い。」(17節)

ヨセフはもう一度確認したのです。「彼等の本性を知りたい」と言う問いかけではなかったかなと思うのです。どこまでが本心であるのか?口では、美しい事を言っておいても、実際の場面になったら、その様な事は全く忘れて、自分勝手になる事も多いのではないのか?綺麗事を言っていても、いざとなったら人間の本性が出てくる。ヨセフは今、兄弟達が本心から『犠牲になってもいい』と思っているかどうか、をこの言葉によって吟味したわけであります。ユダはヨセフに淡々とこれまでの父ヤコブとのやりとりを話します。最後に彼はヨセフにこう告げます。

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません」(33〜34節)

この時にヨセフは、家来達の前で、「ワーッ」と泣き出し、喜びの再会を果たすのであります。

罪を認める者に変えられる

この箇所から私たちが学ばせていただきたい、第1のことは彼等の"罪の理解力の成長"という事であります。罪の理解が深められている訳であります。濡れ衣を掛けられた。ところが、ユダは『神はわたしをあばかれた』と言うのです。ユダは「今、この事はしていませんが、そういう悪い心を持っている。それが私達の心です」と心から告白する。へりくだった心がユダの中に生まれていったという事です。ユダが「今回はしなかった、でも神は私達の本当の姿をあばかれた」と言った様に、私達も罪というものに対して、理解がもっともっと深められていく事が大切なんです。自分の罪が本当に分かる時に、人から中傷されても、いきり立つ事はなくなってきます。「私はそういう者なんです・・」と認めるられる謙遜な者に変えられていく訳であります。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分たちを欺いており、真理はわたしたちのうちにはありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第I1章8〜9節)

パウロは『私は罪人の頭です』とこう言ったのです。彼は悪い事をたくさんしたのでしょうか?そうではありません。彼ほどに真剣に神様に従った者はいないかもしれません。けれども、彼は自分の弱さを、醜さを認めていたのであります。言い訳や弁解は必要ないのです。

「私はその様な者です。ですからイエス様あなたが十字架に掛かって下さったのですね。」と思うこと。これで十分なんです。自分の弱さを認めていく者になっていく事が大切ではないかと思います。さて、2番目のポイントですが、ユダが淡々と「事実」を語ったということであります。クリスチャンの成長の中に"誠実さ"といいましょうか、真実を語る姿が必要です。聖書には、

「愛を持って真理を語り・・・」(エペソ人への手紙4章15節)

とあります。或いは、

「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネの福音書8章32節)

とあります。私達は自分に都合の良い様に真実を少しづつ曲げてみたり、自分の都合の良い様に人に話してみたりする事があるのではないでしょうか?例え不利になったとしても、私達は神の前に誠実に歩む事が大事ではないかと思います。

そして3番目に、「私たちも、杯をもっているのを見つかった者もあなたさまの奴隷となりましょう」とこの責任を自分も負いますと言えるように変えられたユダの姿、であります。前はヨセフを見捨ててしまったユダが、今や『この責めを、自分も共に負います』という人物に変えられていった訳であります。神様はユダを、非難する立場ではなくて、一緒に担う者に変えていきました。ここも私達が学ぶべき点ではないかと思うのです。

他人事として見るのではなく、自分の問題として一つ、一つを捉えていく。ここに主の願っておられる信仰者の姿があるのではないでしょうか?

愛するが故の犠牲

ヨセフを売り飛ばしたのはこのユダの言葉がきっかけでありました。その後、神様から離れたユダではありましたが、神様の御訓練を通して、自分を身代わりとして差し出すまでに、変わっていったのです。イエス・キリストは私達の罪の為、御自身は何の罪もないのに、自分があたかも罪人であるかのように、十字架に掛かり死んで下さった。ここに愛がある訳であります。私達はこの愛を受けた者として、人を非難するのではなく、人に重荷を負わせるのでもなく、他人の弱さや、痛みを自分が担う者になっていきたいものであります。ユダはこの時、父親を愛するが故に、ベニヤミンの身代わりとなる決心をしたのです。私達が友の為に、兄弟姉妹の為に、愛の労苦が出来る秘訣はここにあるのです。

私達が神様を愛する者となる時に、私達は喜んで他の人の為に犠牲になることが出来るのです。神様を愛する事なしに、他の人の身代わりや、犠牲になる事は出来ません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15章13節)

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(ヨハネの手紙第I 4章20節)

私達はこのキリストの愛をしっかりと頂き、キリストの愛を体験し、私達も他の人の弱さや、痛みを担う者に変えられていきたいものであります。

あなたの罪の理解は成長しているでしょうか?あなたは誠実になってきているでしょうか?他の人の弱さや重荷を担う者になっているでしょうか?キリストにあって、救われただけではなくて、成長するお互いとされていきたいと思います。