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「回復の時」

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2000年3月5日 日曜礼拝メッセージ
創世記45章1〜28節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

摂理の信仰

私達の信仰生涯の中には色々な局面があります。

ある時は恵を喜び、感謝し、賛美するのですが、ある時には、落込み神様が見えなくなって、「これでも、本当に神様はいるのであろうか?私の事を見捨てたのではないであろうか?」と思う事があるのではないかと思います。

そういう中で、信仰生活に大きな変化をもたらす時があるように思います。全ての出来事の中に神がおられる。神が関わっていて下さるという事を受けとめる事が出来た時に摂理の信仰が生まれるのです。その時に私達の信仰は揺ぎない、しっかりとした、磐石(ばんじゃく)な土台に立った信仰になる事が出来るように思います。

再解釈

前回のメッセージでは、エジプト宰相になったヨセフがカナンに帰国しようとしていた兄弟達を追いかけ、弟ベニヤミンの袋に銀の杯をわざと入れておいて、ベニヤミンを捕まえるという策略をした訳であります。ところが、その時にユダが答えたその答えは、ヨセフの心を震わせました。ユダが本当に、心底父親を思っている事がわかったのです。そしてベニヤミンも何とかして救いたいとしている。ユダ本人が『自分が身代わりになります』と言う言葉を聞く時に、ヨセフはわき上がる感動を押さえる事が出来ませんでしたし、それ以上追求する必要はもはやないと感じたのではないかと思います。この出来事を通して本当に兄弟達の心が、全く昔と変わっている事に気付かされた訳であります。そしてヨセフも自分から『私はヨセフです』と告白する訳であります。兄弟達は、驚きのあまり、答える事ができませんでした。「今、私をここに売ったことで、心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」5節この言葉の中に、ヨセフの持っていた信仰が表されている様に思います。まず第一は、ヨセフにとって本当に苦々しい思い出はむかし兄弟達にされた事ではないかと思うのです。憎いという思いが強かった訳でありますが、今や彼の言葉は違いました。「今、私を売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。」かえって兄弟達を慰め、励ましています。そして続けて「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださった」とこう言うのであります。今までの出来事に、新しい解釈を加えるのであります。兄弟達は自分を怨んで、憎んでひどい事をしたと言っていた訳でありますが、そうではなくて、あの出来事は、『神がそうなさったのだ』と言うのであります。その時に彼の内から兄弟に対する、憎しみや怨みが消えていった訳であります。私達が今日ご一緒に学びたい信仰の姿勢はこれです。摂理の信仰、つまり全ての営みの中に"神がおられるという信仰です。その時に私達は、様々な情況、他人との関わり、種々の問題等を怨んでいたのが、そこから解放されて、全く新しい生き方、神様の恵みに日々感謝し、それを喜ぶ生き方に変わるのであります。ヨセフは、神様が、この様に導く為に、あの事をなさったんだと解釈する事が出来た訳であります。私達も過去の出来事を、「神がこの様になさったんだ」という受け留め方を共にさせて頂きたいと思うのであります。
私達も自分達の過去の様々な出来事に対して、もう一度再解釈していく事が必要ではないでしょうか?過去の出来事一つ、一つを"神様"という目を通して見るのです。今までは"自分"という目を通してしか見る事が出来ませんでした。嫌な事しか見えなかった訳でありますが、神を通して見る時に「私を訓練する為であったんだな」という新しい見方が出来るようになる訳であります。あなたの人生の中にも神様はその手を伸べておられます。「何故こんなつらいことが起こるのだろう?」と思ってきた事柄に対して再解釈を、つまり『神がそれを許された。神がそれを益に変えたもう』という信仰を持つ者に変えていただきたいと思うのであります。

百倍の恵み

「彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地にはいり、彼らの父ヤコブのもとへ行った。彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父ヤコブはぼんやりしていた。彼らを信じることができなかった。」25〜26節最初はヤコブはヨセフを失ったと思いました。そしてシメオンを失いました。更にベニヤミンも失うかもしれない。しかしヤコブは「失う時には失うのだ」と覚悟をしたわけであります。その時になんと失ったと思われたヨセフ、シメオン、ベニヤミンも返され、更に豊かな食物と宝物が与えられていった訳でありますね。「イエスは言われた。「まことにあなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠の命を受けます。」マルコの福音書10章29〜30節まさしくこの言葉とおりの事がヤコブの上に起きたと言うことができると思います。私達は一見苦しそうに見える出来事があったとしても、後にはこの様に大きな祝福がある事を覚えて、神の摂理の道にしっかりと歩んでいきたいと思うのであります。神の摂理をもって一つ一つの事を見る。そして躊躇せずにそこに繰り出していく者でありたいと思います。そして神を第一にして歩み、私達もヨセフの祝福にあずかるものにさせて頂けたら、と思うのです。あなたの生涯に神様は目を留めておられます。「だったら、何故こんな事が!?」これが私達の解釈であります。しかし神様はそこに意味と目的を持っておられるのです。私達も「今は分からないが、神様には意味がある」とそう受け取っていきたいのであります。

あなたは、今自分のいる場所がその様な場所であるということを受け取っておられるでしょうか?つい私達は「もっとこうであったら、あーであったら、こうなっていたら、あーなっていたら、もっと良かったのに!」と思うことが多いのではないでしょうか?でもそうではなくて、神様は今あなたをそこに遣わしている。

この信仰に立つことが大事だという事ですね。私達は過去のものを再解釈するだけではなく、「今」置かれている所が主によって遣わされている所として受けとめなおすことも大切ではないでしょうか。そしてそこにおいて、お仕えしていく。神様はそこに立ちきった私達に対して、ヨセフの様に祝福の基として、用いて下さるという事を共に覚えたいと思うのであります。

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