「祝福の基」

2000年3月26日 日曜礼拝メッセージ
創世記47章1〜31節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

私達の人生の歩みは、"自信"というものを持っているか、、そうでないかで随分と違ってくるのではないかと思います。同じ事をやるにしても、自信がないとオドオドして、不安定で、心配で、与えられている能力も十分に発揮できないということがしばしばあります。けれども、確信や自信がある時に、その人の中には、時には力以上のものを発揮する事も有る訳であります。前回学びましたように、ヤコブはエジプトに下る事に対して不安がありました。そこでヤコブは神様に祈り求め、『私があなたと共に行くのだ。これは誘惑や堕落の道ではない。あなたと共に行く道である』と言われたのです。そして、それによってヤコブは確信を持ってそこに進んでいく事が出来たことを学ばせて頂きました。

神の祝福の中に

ヨセフはカナンから来た家族を王パロと対面させます。始めに兄弟達。その後父ヤコブと会うことになりました。

「それからヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつ(※別約祝福)した。パロはヤコブに尋ねた。『あなたの年は、幾つになりますか。』ヤコブは答えた。『私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。』」7〜8節

130歳。今から2500年以上前のエジプトではこんなに年を取っている人はいなかったのです。高齢という事はそれだけで随分尊敬され、手厚く遇されるのでした。しかしヤコブは「私の齢はわずかで、不幸せで、先祖達のたどった年月には及びません。」と答えています。これは、随分落込んだ時の答えなのかな?と思うほどですが、この中にはヤコブ自身が神様の前にやってきた事の反省、「私は神様の前に祝福されるような生き方よりも、神に背き、神の災いを受けても当然な人生を歩んだ」という思いが背後にあったからかもしれません。ところがそういう自己意識があったにも関わらず、彼は一国の王を"祝福(挨拶)した"のです。今日ご一緒に学ばせて頂きたい第1の事はこの事、即ち『私達は誰なのか?』という事です。

「あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。」創世記28章14節

一介の旅人にすぎないヤコブに対して神様は『あなたを祝福し、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される』と言ったのです。そしてこの言葉のゆえに、この宣言のゆえに、ヤコブはここでエジプト王パロに"挨拶し、祝福した"のではないかと思われるのです。ある聖書注解者はここを「ヤコブはパロ王の為に、祝福を祈ってあげたのだ」と解釈する方もおります。いずれにせよ、ヤコブはただの羊飼いにすぎないにも関わらず、彼は王をさえ祝福するという"神からの確信"を持ち合わせていた。それが正しく"アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神"といって今や全世界に広げられる基となっていったということを覚えたいのであります。

「これは大昔に存在したヤコブという人のことであって、私には関係のない事だ」と思うかもしれませんが、聖書は私達の事を、『アブラハムの子孫、ヤコブの子孫』と言っているのです。私達はその様な祝福の中に置かれているのです。

神の子供という立場

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」ペテロの手紙第Ⅰ2章9〜10節

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43章4節人からどの様に思われようとも、私達はこの"神の基準"、"神にあるところの私達の立場"をしっかりと持つことが大切ではないかと思います。あなたは本当に"神の子"という立場に立っておられるでしょうか?この基準に立つ時に右往左往せず、何時でもしっかりと立って歩む事ができる。その事を覚えたいのです。ヤコブは、自らは決して立派な者ではなく、足りない者、貧しき者と自覚しつつも、なお王パロを祝福するという権威にあずかる事が出来ました。私達は皆この確信の中に立つ事が出来るし、立つべきだと思うのです。あなたは、"神の所有とされた民"なのです。この事を本当に受け取っておられたでしょうか?『あなたは高価で尊い』。神のこの宣言をもう一度私達も受け止めていきましょう。

ヤコブは神から「あなたによって、あなたの子孫によって全ての民族が祝福される」と語られました。神様はこの祝福を霊的イスラエルの民である私達に下してくださっているのです。神様はあなたを祝福し、そしてあなたによって全ての人々が祝福される。あなたは"祝福の基"だと言われているのです。私達がその様に受け取るならば、大胆に生きる事ができるのではないかと思います。

祝福の基となる

「どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人に上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返ってきます。」ルカの福音書10章5〜6章

これはイエス・キリストが弟子達に語った言葉でありますが、これは私達にも言われていることだと受け止めたいものです。私達は祝福を祈る者とされているのです。先ほど読みました箇所に"あなたがたは神の祭司"ですとありました。"祭司"というのは神と人との間を取り次ぐ者です。神の祝福を色々な人と分かちあえる人です。私達はそういう存在にされているのです。この自覚をもっときちんと持つべきではないかと思うのです。皆さんは神の祭司とされていますし、皆さんの祈りは神様に届いているのです。そしてその祝福は周りに広がり得るものなのです。

私達一人一人が、神によって恵まれた驚くべき者とされているのだという事を知る時に、周りの方々の祝福を祈る事が出来るのであります。そして"祝福の基"となっていく事ができる訳ですね。私達を通して、一人一人が祝福に進むことが出来る。この事をしっかりと覚えたいと思います。

「さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常に増えた。」27節

周り中は激しい飢饉にある中で、イスラエルの民は増え広がっていったと言うのです。ヤコブに神様が『わたしはあなたとともにいる。わたしは、そこであなたを大いなる国民にするから』といわれた約束が事実ここに成就していたった訳です。神様に従っていくならば、神様はその約束を必ずまもって下さる。私達が神に従う時に、大きな祝福を頂けるということを学び取ることができたら、幸いだなと思うのですね。

神への到達地点を目指す

さて、ヤコブは自分がもうすぐ召されるという事を感じました。ヤコブは「私が死んだら、この地に置いておくことのないように。私を必ずあの先祖達の眠るカナンのマクペラの地に葬るように」というのであります。これはヤコブの中に自分の行くべき所が何処であったのかをはっきりとわきまえていたという事であります。私達は本当に到達するべきゴールというものを決して見失う事のない様にしたいと思うのです。表面的な祝福がそこにあろうとも、そこに惑わされる事なく、我等は最終的なゴールにしっかりと目をとめていく必要があると思うのであります。私達もどこに向おうとしているのかという事にしっかりと目を向け続けていきたいと思うのであります。

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト。イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向って進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄光を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違っている考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として進むべきです。」ピリピ人への手紙3章10〜16節

神様が私達をお救いになられるのは、様々な地上での困難や苦しみを乗り越えさせるだけではなくて、私達に永遠の祝福、天の御国を授ける為であるという事も覚えたいのであります。私達のゴールがどこであるかということによって、地上での歩みは変わってくると思うのです。神様は、私達が持つべき"永遠の祝福"に目を向けなさいと語っています。地上での歩みは、「永遠」という尺度で考えればほんの一瞬、まばたきのような時間にすぎません。しかし私達はその中で一喜一憂しているのであります。

私達はここを遥かに越えた永遠の喜び、永遠の祝福が待っていること、この事をしっかりと視野に捉えて頂きたいのであります。私達も地上で様々な苦しみや困難に出会い、神様の力でそれらを乗り越えていく。それも大切な事ではありますが、それにまさって、我等には永遠の祝福、永遠の恵が与えられていることをもう一度心に明記していきたいのであります。

私達も誰の前でも惨めになるのではなくて、しっかりと立つ事ができる様になるために、神様が語って下さっている私達の立場、存在をもう一度覚えましょう。あなたは神の民とされている。『宝の民』とされている。また私達の目指すゴールがどこであるのかをわきまえしりましょう。