「信仰による祝福」

2000年4月2日 日曜礼拝メッセージ
創世記48章1〜22節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

本日の箇所は、彼が本当に変えられている姿をみるのです。ヤコブがエジプトの地に来て17年の月日が流れました。その間、ヤコブの信仰は養われ徐々に成長していったように思います。そして最後の時が近づいているのを、ヤコブ自身が感じたようであります。その時にヤコブは最愛の息子ヨセフを呼んで、一つの誓い−「自分が死んだなら、遺体を故郷のカナンに連れていく事」−を約束させるのです。ここにヤコブの本当の願いというものがあった事を教えられるのです。今日はそこに神様の憐れみと、また私達をも変えてくださる神様の恵とを共に覚えさせて頂きたいのであります。

神の御業を見る者

今まで色々な所を通ってきたヤコブでありましたが、自分の生涯が終わると感じた時に彼は『全能の神がルズで私に現れ、祝福してこの様に言った』と語り、父親や兄をだまして逃げた自分に対して与えられた神様の憐れみと感謝や神の御手の業を覚えながら、息子ヨセフに『ヨセフよ、あなたに与えられた二人の子供は私の子供にする』と提案するのであります。現実にはヤコブには12人の子供がいました。後に「イスラエルの12部族」と呼ばれるようになりますが、実はその内の一つの部族レビ族は祭司職を代々受け継ぐ民族になり、相続の土地を受け継がなかったのです。

そしてヨセフの2人の息子、マナセとエフライムが土地を相続するようになっていくのです。本来ならばそれは長子の権利を有する長子ルベンが引き継ぐべきでした。しかし神様は"ヨセフを長子として扱っておられる"という事をヤコブは見てとる事が出来たのではないかと思います。ですから、ヨセフ一人が相続の地を相続するのではなく、マナセとエフライムの分もあわせた、二人分の土地を相続するのが神の御旨なのだと悟る事が出来たのではないでしょうか。そして事実そのようになっていった訳なのです。

ヤコブが子供達を祝福するその時に、ヨセフは地に頭をつけたのです。エジプトの宰相という高い地位にある者が、父親であるとはいえ、ヤコブの前で頭を地につけた。ここに彼等の信仰の姿というものがある様な気がします。そしてヨセフは父ヤコブがすぐに子供達を祝福できるように、長男マナセを父の右手側(右は強い力を表す)に、次男エフライムを父の左手側に立たせました。ところがヤコブは、わざわざ両手を交差して祝福の祈りをしたのです。ヨセフはヤコブが老齢の為に判断力を誤ったかと思ったので、「お父さん!そうではなくてこちらですよ」と言い、交差した手を戻そうとするのです。ところがヤコブは判断力が鈍っていてそうしたのではなく、「分かっていてその様にした」と答えます。

そして「これで良いのだ。マナセは大きくなる。でもエフライムはマナセ以上に大きくなる」と預言をします。歴史によれば、事実この通りになったのです。後の日、イスラエルの北半分が「エフライム」と呼ばれるようになるほど、大きくなっていったのです。ヤコブは遠い遠い将来までを見抜く存在になっていたという事なのです。

「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかり礼拝しました。」ヘブル人への手紙11章21節

彼の信仰が成長し増し加えられていく時に、彼は見えないものが見えるようになってきた、神の御旨を本当に悟る事が出来る者に変えられていったという事ではないかと思います。ヤコブは若い頃はずる賢く、悪巧みも平気で犯してしまうような、神様から遠いと思われるような人間と思われた訳です。しかしそのヤコブがこの様に神の御旨を悟るようになっていった訳であります。

イエス・キリストが山上の説教の中で「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」マタイの福音書5章8節

と語っています。私達の心が清められていく時に、私達は神を見ることができるようになっていく。神の御心を見ることが出来、神の今なさっている事を見る事ができ、神によってこれから起ころうとする事さえも、教えられていく事が出来る。私達はその様に神の御旨をしらしめて頂く事が出来る者にまでも変えられていく事ができるという訳であります。

永遠の祝福への道

「わたしはもはや、あなたがをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」ヨハネの福音書15章15節

神様は私達が神に真実に仕えていこうとする時に、私達を友と呼んで下さいますし、友として扱って下さいます。また、その様に神様に近く歩む事ができる様にして下さると語っているのであります。

その秘訣が一体何処にあるのか?それは神を求める心にその秘訣があるのではないかと思います。先ほども言いましたように、ヤコブは色々と酷い事をした訳でありますが、その理由はと言えば神様の祝福を求める為でありました。彼は、後の日にイスラエルの地は子孫によって支配され、神の支配がそこに起こる事を信仰により、彼は見ていたのであります。いかがでしょうか?私達の信仰の目はそのようなくもりが取り除けられて、本当に見るべき物を見る者に変えられていっているでしょうか?

私達が信仰に入るきっかけというのは、往々にして「自分の願いを叶えてもらう神様が欲しい!」ということではないかと思います。けれども私達の信仰はそれで留まっていていいのではない。そこから永遠の神の祝福というものに目が向けられ、そこを受け継ぐ者として召されている、驚くべきこの世界にもっともっと目が向けられていく必要があるのではないかと思うのです。

私達はそれぞれが生涯をこの地で終えるわけでありますが、その後に永遠に神の祝福と恵に生きる事が約束されていますし、それが私達の為に備えられた救いの道であります。だからこそ、そのような備えをする為にイエス・キリストはこの地に来てくださったという事であります。私達は自分の見るべきものを見据えて『永遠の御国、天の御国』に向って進んでいく者とならせて頂く事が大切ではないかと思うのであります。パウロも

「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ人への手紙3章14節と語っているのでありますけれども、その様な思いを頂く事が大切ではないかと思うのであります。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手にいれることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」ヘブル人への手紙11章13〜16節

私達が本当に認識するべきことは、「この地上での祝福は最終的なものではない」という事です。永遠の祝福が私達クリスチャンには約束されていますし、私達はそこを目指して歩んでいく。その時に私達の信仰は本当に清められ、本当に引き上げられ麗しく豊かなものにされていくのだという事をしっかりと心にとめて頂きたいのであります。

私達は人生の長さは、長くても70〜90年。永遠という観点からするならば、まばたきの瞬間のような時間です。そのような短い時間の事で、私達は悩んだり苦しんだりしている訳であります。私達はその短い時間の事を思い煩うのであるならば、更に大切な永遠の備えはどんなにか真剣にしていく必要があるかということをもう一度、心新たに教えられていきたいと思うのであります。

「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」詩篇46篇11節

神様は皆さんの神様でもあります。そして皆さんを一歩、一歩引き上げて、清められ永遠の祝福、永遠の恵へと導いて下さる。神様は私達を救いに導くだけではない、更にその信仰の道を前進させようとしている。私達は信仰の成長とともに、地上にあっても神様がなさろうとしている事に対して、もっともっと信頼と期待と寄せ、正しく平和に歩んでいく事が出来るようにされていくのです。神様の祝福はこの世にあっても、また永遠の世にあっても、溢れるばかり我等の為に備えられている。私達は神様に対して心を開いて真剣に共に求めていく者になっていきたいと思います。