「救い主の誕生」

2000年6月4日 日曜礼拝メッセージ
ルカの福音書2章1〜21節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

ルカの福音書は、私達に神様の"救いの御業"を説明して下さっている書巻です。今日は『イエス・キリスト誕生』の一連の出来事の中から、"ベツレヘムの人々"と"羊飼い達"の二つの人々の姿を通して、私達の神様への姿勢を教えられていけたらと思います。

主の支配——時代・国家・歴史さえも

紀元前後のローマ皇帝アウグストの時代に、勅令による全世界の住民登録がなされました。ローマで人は、自分の住んでいる地域で、またユダヤ民族は生まれ故郷で登録をしなければならなかったようであります。ここでまず第1に学び取らせて頂きたい事は、我等の主は、天地、国々、歴史をも支配される主である事を覚えさせて頂きたいと思うのです。と言いますのは、イエス・キリスト誕生の地は、旧約聖書創世記の時代から何度も、何度も預言されていたからです。

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ミカ書5章2節

何百年前から、神様は"わたしはベツレヘムに救い主を生まれさせる”と、預言してあったのです。この時期の住民登録がなければ、本当はイエス・キリストは"ナザレ"で生まれていたはずなんです。彼等は住民登録の為に、ベツレヘムに向かい、これによってキリストはベツレヘムで生まれることとなりました。

この事から、我等の神様は、ユダヤの片田舎で小さな出来事をやっているのではなく、大国ローマ帝国の皇帝アウグストを支配し、導くところの王の王、主の主であられるということが分かります。私達はもっと、しかとこの事を心にいい聞かせる必要があるのではないでしょうか?私達は神様を小さくしすぎている事はありませんか?我等の神は、歴史も、時代も国も超えるようなお方なのだという事を知っていく必要があると思うのです。

全てを支配される主

私たち信仰を持ったクリスチャンの歩みをよく"信仰生活"というのですが、"信仰"と"生活"と分けて考える事がある様です。心の中の事は"信仰"で安らぎを得たり、平安を得る。しかし"生活"の方は、自分で頑張なければないんだと、二つを分けて考えてしまう方があります。しかし我等の神は、この自然も歴史も国も超える、王の王、主の主であられるということを受け取っていく必要があるのではないでしょうか。

「この事には、神様は介入してくれないのではないか?これはいくら神様でも・・・・?」

そういう制限をつけてしまって、折角の神様の御業を見る事が出来なくしてしまっていることはないですか?もっと私達は生活の只中に神様をお迎えしていく事が大切ではないかと思うのです。我等の神様は私達の全てのものを御支配下さるお方であるという事をしっかりと覚えさせていただく必要があるのではないかと思います。

神様は私達の生活の只中に来てくださり、その中に御業を表してくださるという信仰をどの程度持っているでしょうね?全ての出来事が神様の御手の中にあるという捉え方をもっともっとさせて頂きたいのであります。

「知識」の御言葉から御言葉に「従う者」に

さて、ベツレヘムで生まれた救い主イエスはむさ苦しい馬小屋の飼い葉桶に寝かせらました。これはまさに、人々の心をそこに表しているという事も出来るのではないでしょうか?すなわちちイエス・キリストをお迎えしようとしない心、です。当時のユダヤ人達は、「救い主はどこにお生まれになるのですか」と聞かれれば、「それはベツレヘムです」と即答できる程、救い主がこの町で生まれる事は分かっていたんです。しかし、救い主が生まれる時に、彼等は救い主をお迎えする用意が全然ない。知識では分かっていた。神の言葉もあった。でも彼等はその為の備えをしていなかった。本当の意味で、神に従う心が、実はなかったという事です。

私達の心にも、ベツレヘムの人達と同じ様な心が巣食ってはいないでしょうか?私達も「知っている」という事で満足していてはなりません。御言葉に聞く姿勢を、作り出して頂く必要があるのではないかと思います。さてそれに対して羊飼いは、どの様な態度をとったでしょうか?

ユダヤ教の観点から言いますと、羊飼いは、あまり尊敬されてはいなかったと思います。ベツレヘムの町は救い主の誕生を預言されていました。しかし町にはキリスト一行を迎えいれる者は誰もいなかった。それに対して、救い主誕生の知らせを受けたのは、羊飼い達であったという事は驚きではないでしょうか?神様は彼等の前に神様権限を現した訳です。彼等は決して自分達が神の前に相応しい民であるとか、きよい民であるとか、神の前に高い者であるとは思っていなかったでしょう。御使いにより、救い主誕生を告げられ、彼等はその時にどうしたでしょうか?彼等は話し合って、そして聞くだけでとどめず、実際に行って『見て来よう』、とそこに従う者としての心があった訳です。

私達も素晴らしい教えを聞いたり、素晴らしい教えを知ったりします。でもどうでしょうか?そこでとどめてしまうという事が結構多くないでしょうか?羊飼い達にはそこに本当に「行って見て来よう」と一歩踏み出す、勇気、信仰があった訳であります。彼等は御言葉を聞いて、それで終わりにする人達ではなかった。御言葉に従う心の用意が出来ている者だったのです。彼等の内に神様は栄光の御業を成してくださった。私達もこの姿に倣う者に成らせて頂きたい。御言葉が本当に結びつけられて、従う者となっていく。生活に生かされるものとなっていく。その時に私達は初めて神の御力と栄光を見る事が出来るのです。

私達にも必要なのは神の御言葉を聞いて、そこに従う姿勢を持って望むかどうかという事なのであります。ベツレヘムの人達は知っていたのです。本来は彼等がキリストをお迎えするに一番近い所にいたんです。でも彼等にとっては、その知識は何の役割も果たさなかった。神様を追い出して、自分の思いを成し遂げ様とする思い。それに対して、神様から自分が教えられた知識。分かった事に関して、そこに従い、「では見て来よう」と出かけて行った羊飼い達。

正しく栄光の主をそこに見る事ができた訳です。私達はどちらの道を歩もうとしているでしょうか?ベツレヘムの町の人達の道でしょうか?それとも祝福に満ちた羊飼いの道でしょうか?御言葉を真剣に受け止め、そこに従う決意を与えてくださいと祈っていきたいものであります。そして共に栄光を仰ぎ見るお互いとされていきたいと思います。