「聖霊降臨」

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2000年6月11日 ペンテコステ メッセージ
使徒の働き1章3〜5節、2章1〜8節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

教会の中では、3つの大切な行事があります。一つはクリスマス。二つ目はイースター。そしてもう一つが『ペンテコステ』。"聖霊"がこの地上に来てくださったのが『ペンテコステ』であります。実は『ペンテコステ』については、前々からイエス・キリストが弟子達に何度も語っていました。今日は『ペンテコステ』の真実を知らされていきたい、分かちあいたいと思います。

聖霊降臨

私はクリスチャンになってしばらくしても、本当の意味で"聖霊"という方について、よく分かっていなかったと言えると思います。天地を造られた父なる神様は分かります。私達の身代わりになって下さったイエス・キリストも分かります。でも"聖霊"は分かるようで分からないという部分があったかなと思うのです。しかしながら、私達が本当に知るべきは、この"聖霊なる神様"との交わりであり、そこから受ける力や、喜び、慰め、励ましであります。そしてこれが分からなければ、クリスチャンとしての喜びも、醍醐味も薄れてしまうと言わざるをえないのではないでしょうか?

「彼らといっしょにとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」4節「さあ、わたしは、わたしの父が約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカの福音書24章49節イエス・キリストは、弟子達が世界宣教に出かけて行くのに、どうしても必要な事としてこの"聖霊"を受ける事を明確に語り伝えていたのです。

クリスチャンがクリスチャンとして生きる力がどこにあるかと言いますと、この"聖霊"によるのであります。私達は聖霊によらなければ、クリスチャンとして歩む事が出来ない。聖霊によって歩む時に初めて、喜びをもって主に仕えていく事が可能になるのです。

イエス・キリストは預言どおり十字架にかかり死にました。それは私達の身代わりの為であると言いました。そしてその事を証するかの様に死からよみがえった訳です。そして彼はよみがえったご自身を40日間彼等に現されました。そして後、キリストは天に帰っていった訳です。復活からちょうど50日(五旬節)目に、約束の"聖霊"が主を待ち望んでいた一人、一人にとどまりました。

さて、今日私達はまず第1に知っておきたい事は、「イエス・キリストを信じた人の中には"聖霊"が既に来てくださっている」という事であります。クリスチャンになってすぐの人に、「救いの確信があるか」と聞くとと、「救われた様な気もするし、救われたと言えないような気もする」と言うことがあります。でも皆さんの内に聖霊が来てくださっているかどうかの一番の見極めは、『イエス・キリストを救い主として信じているかどうか』です。もしイエス・キリストを救い主として信じているならば、あなたの内に既に聖霊は来て下さっています。

「ですから、私はあなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」コリント人への手紙第I12章3節

皆さんは「自分で」イエス・キリストを信じたと考えているかもしれませんが、聖霊が皆さんの内に来て、キリストが行われたことの意味を解き明かして下さらなければ、その事を信じられないんです。信じ様と思っても信じられないんです。実はイエス・キリストを信じるという事は、自分でしようと思っても出来ない。しかし否定しようと思っても聖霊の力が働く時に、それを受け止めてしまうんです。ですから、イエス・キリストは神様であると受け取れている人は本当に聖霊を受けているのです。

2番目には、「"聖霊"が自分の内にいて下さる」ということを知るだけではなくて、「その方がどういう方なのか」をもっともっと知っていく必要がある、ということです。「まことに、まことにあなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりも大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」ヨハネの福音書14章12節

『わたし』とは誰ですか?"イエス・キリスト"の事です。『わたしを信じる者』とは誰ですか?"私達"ですね。私達は『イエス・キリストの行う業を行う』というのです。イエス・キリストがこの世でなさった御業は、聖霊の力でなさったのであります。だから私達も聖霊に満たされていく時に、こういう業をなしていく事が出来る。更に、

「しかし御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」ガラテヤ人への手紙5章22〜23節

皆さん!これこそ私達が必要としているものではないでしょうか?私達の内に愛が、喜びが、寛容が、親切が、自制が・・・・・これらのものが本当に満ちていくなら、どんなに豊かなものにされていくでしょうか?これが御霊(=聖霊)の実です。イエス・キリストを信じてその聖霊を頂き、また満たされていく時に私達はこの様なものにされていくのです。私達はそういう意味において、御霊の満たしがどうしても必要になるのです。しかし、せっかく聖霊が来てくれているのに、私達は聖霊の力をないがしろにしてしまって、その力を味わえなくなっている事が多いのではないかと思います。

「わたしは言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ガラテヤ人への手紙5章16節

もし私達が御霊に満たされて歩んでいくなら、罪に打ち勝っていくのです。私達は御霊に満たされていく必要がある。ところがどうでしょうか?私達はイエス・キリストを信じたんですが、心の片隅に追いやってしまっている事はありませんか?心の王座には"自分"がどっかりと座ってしまっていませんか?その為に私達は御霊の注がれる祝福を受ける事ができなくなっていることはないかと覚えたいのであります。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神からの受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」コリント人への手紙第I6章19節

あなたのからだがもう自分の物ではなかった気が付いておられましたか?本来はあなたの体は聖霊のものですと言っているのであります。この体が自分のものでないことをはっきりと認めるべきなのです。聖霊は謙遜な方ですから、強気に「お前のからだを返せ!」なんて言わず、じっと静かに、皆さんの心の扉を叩いているのです。私達が自分で「今日からあなたにお返しします。私のこの体も、私の人生もあなたのものです。」と自由意思においてお返しする日まで、待っておられるのです。そしてお返ししたその時に、神様は様々な祝福、様々な恵みを与えて下さる訳であります。

私達の人生は御霊によって歩まなければ、つまり自分の力だけで歩んでいくならば、苦しい歩みになってしまいます。でも御霊を頂いて歩む時に、愛の業や優しい言動がそこに現われてくるんです。私達もこの、「御霊に明渡す」と言うことが大切なのです。私達は平気でこの"聖なる宮"に汚れたものや、醜い思いをどんどん入れてはいないですか?そして本来の持ち主に返さないで、自分勝手に使っているのではないですか?その為に私達の生涯が惨めな生涯になってしまっていることはないありませんか?聖書は私達に『御霊に満たされなさい』と言うのです。

神様は、「"御霊"に満たされ続けてこそ、クリスチャンが初めてクリスチャンらしく生きることが出来る。あなたがたはこの事を真剣に求めるべきだ」と言っておられるのであります。あなたの人生もあなたの体も全てをもう一度主にお捧げしてはどうでしょうか?そうするなら、神様は豊かにあなたに恵みを与えて下さるでしょう。主の豊かな恵みに与っていくお互いにされていこうではありませんか。