2000年6月18日 日曜礼拝メッセージ
ルカ2章21〜40節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三
前回はキリストがこの世に生まれた時、神の律法からは、遠いと思われていた羊飼いに神様の栄光が現されたという事を学ばせて頂きました。皆様も「私は神様から遠い存在ではないか?」と心の何処かで感じているかもしれません。神様はあなた自身のすぐ傍、あなた自身の内に豊かな栄光を現して下さるのです。そんな期待と希望を持ちながらこの御言葉に触れていきたいと思います。
律法と律法からの解放
「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。さて、モーセの律法による彼らの清めの期間が満ちた時、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。」21〜22節
ここに私達は今日学ぶべき第1のポイントを見出させて頂きたいのです。イエス・キリストはこの地上に、律法を超える方、律法を定める方として来て下さったはずであります。ですから本来イエス・キリストがこの様な律法を守る必要があったかと言いますと、必要なかったはずです。ところがイエス・キリストはこの様な律法を全部守られたのです。私達はここに"律法を守ることと、律法からの解放"、この関係をきちんと教えられていきたいと思うのです。
私は長い間、クリスチャンであるなら、「○○でなければならない。××でなければならない」という考え方の中に長く歩んでいました。それなりに、神様の恵みを味わった部分もありましたが、何か縛られている感じで本当の意味での"解放"や"喜び"を味わえないクリスチャン生活でした。かえって「〜ねばならない。〜ねばならない」と苦しい感じでした。でもイエス・キリストの十字架がその全ての律法から私を解放したのです。
「私はその様な律法に捕われる必要がない。どんな私の弱さがあっても、それを全て覆い尽す御業、御力がこの十字架にある。」
この事を知った時に本当に解放されました。出来ない部分はイエス・キリストが全部負って下さった。そしてその事を皆様に"律法からの解放"としてお話している訳ですが、一つだけ心残りの部分があります。それはその事を喜んだあまり、いきすぎてしまった部分があるかもしれないと思う部分があるのです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいもの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」マタイ5章17〜19節
『戒めのうち最も小さいもの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。』とあります。もしかすると私はここに一歩足を踏み入れていたかなと思うのです。
こう言われると皆さんの中で混乱しませんか?「律法から解放されたのではないの?なのにやはり守らなければならないの?どっちなの?」
と思うかもしれませんね。この中に語られている"真理"が、今日の箇所の中に、記されている様に思うのです。すなわちイエス・キリストは、律法を定める人、与える人です。イエス・キリストが律法を守っても、あるいは破っても、関係ない訳であります。しかしだからと言ってイエス・キリストは"律法"を捨てなかったんです。かえってその律法を全部守り通した歩みをしたのです。
「しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽を全焼のいけにえとし、もう一羽を罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女は清められる。」レビ12章8節
本来は羊を生贄として捧げるのですが、余裕がなければ、鳩を捧げなさいといっているんです。ここで大事な事は、一つは全焼の為の生贄。それからもう一つ。"罪の為の生贄"です。少し考えてみてください?イエス・キリストは"罪の為の生贄"が必要でしょうか?罪を犯さないイエス・キリストがどうして罪の生贄が必要なのでしょうか?
「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字によらず、新しい御霊によって仕えているのです。」ローマ7章6章
もう私達は律法に捕らわれる必要はないのです。もうどんな罪を犯しても赦されるのです。私達は律法に支配され、捕らわれる必要はないのです。でもだからといって、律法を無視して良いかというと、そうではない。私達は、律法に捕らわれてではなくて、キリストの十字架に示されたように、その様に赦されているのだから自らすすんで律法を守っていく事が大切だ、という事なんです。
神様が私達に律法を与えて下さったのは、私達の幸せの為であると書かれています。ですから「律法を守らなければ、裁かれるから、しないと怒られるから」ではなく、自らすすんでそれが正しい道であり、それが幸せの為だからと言って、この律法を守る者となっていく。これが神様に喜ばれる姿勢だという事なのです。今や私達は律法により裁かれる者ではないのです。いつでも赦され、いつでも受け入れられ、いつでも愛されるんです。それぞれに律法を守る者になっていく事が大切です。
御霊が律法を守らせる
律法を守ろうと思っても実際には出来ない。皆さんそういう経験を何度もしていませんか?「赦すべきだ。赦そう」と思った瞬間から、憎しみが湧き上がって来る。「良いことをしよう」とするそばから、それを裏切る自分をいやになってしまう。私達は本心から変わることが出来ない。これが惨めな本当の私達の姿なのです。良き事をしようとしても出来ないのです。だからその律法に死んでしまうように、御子イエス・キリストが身代わりに死んで下さってこの問題を解決して下さった。私達に必要なのは、頑張ってするのではなくて、私達は御霊によって出来ない事も出来るんだという信仰を持つ事だ大切なのです。
皆さんは今まで「出来ない」と思ったかもしれませんが、それは自分の力で頑張ってやろうとしたから出来なかったのです。イエス・キリストの十字架を見つめて、私に御霊を与えてくださった。どうかその力によって私が出来る様にして下さいと皆さん祈って下さい。そうすると出来ないはずの事が出来るんです。自分の力で頑張るのではない、自分の弱さを認めてその為にイエス・キリストが死んで下さったことを感謝して、そして
「私のうちに御霊を満たし、私がそれを出来るようにして下さい。愛せる様にして下さい」
と祈るだけなんです。神様はその私達の内に、あなたがたの死ぬべき体を生かしてくださる。イエス・キリストを死者の中から蘇らせて下さった方は、あなたがの内に住んでおられる御霊によって、あなたがの体を生かしてくださるのです。
律法と言うものを私達は「しなければならない、しなければならない」と思っていると、「こんな律法なんか守っていられるか!」と思ってしまうんです。そうではなくて「私は出来ません。守れる様にして下さい」と祈るということなのです。そして神様に期待する時に、神様はそのことを成して下さる。そして喜んで、すすんでこの律法を守る者になっていくということが大切なんです。私達が律法を守らないからといって裁かれる訳ではありませんが、御霊の力によって、私達の幸せの為にといってくださった律法を喜んで守っていく。赦すものになろう、仕えるものにならせていただこうと祈っていきたいと思うのであります。
私達は神ご自身を真剣に求め、そして神様の御言葉を、神様の愛に感じて喜んで、「あなたに従う者にして下さい。そしてあなたご自身を求める者にしてください」と祈り求めては如何でしょうか?この恵みの中に喜んでとどまり、神を真剣に求めていくお互いにされていきましょう。この祝福に共に与っていきましょう。