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「ヨハネの宣教」

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2000年7月2日 日曜礼拝メッセージ
ルカ3章1〜20節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

今日はザカリヤとエリサベツに与えられた「バプテスマのヨハネ」が宣教を始めた所からご一緒に学ばせて頂きたいと思います。

神のことばが下った

「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」2節

旧約時代の預言者達に対して出てくる言葉です。イザヤの上に、エレミヤの上に、エゼキエルの上に、色々な人の上に神の言葉が下った訳です。紀元前400年までに、その様な神の御業が沢山起こりました。しかしマラキという人物に下られたのを最後に、その後バプテスマのヨハネに到るまで、何も起こらなかった。そして、今再び神の言葉がイスラエルにのぞんだという訳なのです。

「そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶものの声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘は低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうしてあらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」4〜6節

これは、救い主キリストが送られてくる前に、備える者が送られてくる。というヨハネに対する預言であります。「イエス・キリストが来る前に、ヨハネがたてられている」それが聖書に預言されていた。そしてヨハネが伝えたことは、悔い改めと赦しのバプテスマであります。人々に悔い改めを命じた訳であります。

もし人が悔い改めなければ、イエス・キリストの救いと言うものは非常に軽いものになってしまう事にお気づきになられるでしょうか?自分が対して悪くないならば、赦してもらってもそんなに嬉しくもないでしょう。私が洗礼を受けて2年ほど経ってからも、十字架というものがそんなに鮮明ではなかったんです。自分の罪の深さがあまり受け取れていなかった。しかし自分の罪が分かってきた時に、十字架は本当に必要だし、十字架は何と感謝なんだろうと思えました。

私達の信仰生活が何かすっきりしないと言う原因の一つに、悔い改めがきちんとなされていないという事がある様に思います。でもヨハネが語るのは、悔い改めが成されなければ、本当の意味での"救いの恵み"を深く知っていく事が難しいという事なのです。私達は自らの汚れや醜さを見る事なしに、主の赦しの深さ、偉大さを知ることは難しいのではないでしょか?自らが愚かで、醜ければ醜いほど、その全てを赦す主の愛の深さを驚かされるのではないでしょうか?

 悔い改め——謙遜であれ

「それでヨハネは彼からバプテスマを受けようとして出てきた群集に言った。「まむしのすえたち。だれが必ずくる御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」7〜9節

ユダヤ人は自分達が悔い改めなければならない民だとはあまり考えていなかったんですね。「私達は選びの民であって、アブラハムの子孫であり、異邦人の様に汚れた者ではない」という自負心を持っていた。そうではない。あなた方は『まむしのすえ』とまで言われるんですね。

「善を行う人はいない。ひとりもいない。」ローマ3章12章b−14節これは誰の事を言っているのですか?私達の事を言っているんですよ。ですから私達が表面的で上っ面だけの赦しではなく、深い深いどんなものでも洗い清める主の赦しをしっかりと受け取って下さい。

私は時に当然するべき事が出来ていないのではないでしょうか?そしてそれを誤魔化して、あたかも自分はそれをしなかったかのように、自分は関係ないかのように覆い隠してしまっている事が多いのではないでしょうか?そうではなく、「私があるべき姿からずれている者です。」と正直に告白していく事が大切ではないでしょうか?

「民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではないか、と考えていたので、ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」15〜16節

皆さんは自分が良く思われるときに訂正したりしますか。私達は、自分を高めよう、高めよう、人からよく思われようとするのではないでしょうか。民衆は『この方(ヨハネ)こそキリストではないか』と思っていた訳であります。しかしヨハネはそうではなく、

『私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません』

と語りました。これは「その人の奴隷となる値打ちもない」ということです。私達はその様な自分をわきまえた謙遜な姿勢をとっているでしょうか?それとも反対に自分を高めて自分が皆から誉められる道をとっているでしょうか?

「私たちにではなく、主よ。私たちにではなく、あなたの恵みとまことをために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」詩篇115編1節栄光は主のもの。神様にのみ栄光を帰することです。自分の高めたり、自分を良く見せたり、その様な思いが我等の内に巣食うんです。「栄光はただ主にのみお返しするべきだ。と考え、そこにしっかりと立ち続けるバプテスマのヨハネの姿勢は私達が学ぶべき姿勢ではないかと思います。私達はここから2つの事柄を学ばせていただきましょう。

まず第1は、何故この様にバプテスマのヨハネは強くなる事が出来たかと言う事です。私達は自分にとってどちらが都合が良いか、自分にとって損か得かと物事の判断を決めるのではないでしょうか?でもヨハネはそうではない。何が真理か、何が神の御心かという事に徹底して立って歩む事が出来たのです。その強さは何処から来たのでしょうか?その秘訣は『神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った』という所にあるような気がします。神の言葉が彼に下ったときに彼は強くなった。同じ様に私達も神の言葉が私達に来る時に、私達も強くなる事が出来ます。実際に御言葉を聞き、その御言葉に立つ時に弱い私達が強められるのであります。

御言葉は私達を『すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者テモテⅡ3章17節』とすることが出来るのであります。御言葉に親しみ、御言葉に力を頂く。この基本的な事を私達は毎日積み重ねていきたいものであります。

第2番目に先程も言いましたが、「まむしのすえたち」とはそこにいる民衆に対して語られた言葉であります。しかし言いかえれば"私達"でもあるわけです。もし皆さんが「まむしのすえ」と呼ばれたら如何でしょうか?カッーと怒りますか?私達はその時に、「本当に私はそういう者でした」と言いきれる者でありたいと思うのです。「そうです」と言えた時に始めて、悔い改める事が出来ます。もしそう言えなければ、「何故私が悔い改めなければならないの?」と思うのであります。もし私達が自分のやって来た事を一つ一つ振りかえるならば、色々な赦してもらわなければならない事が沢山あるでしょう。それをいい加減に誤魔化して、「こんな事はみんなやっている。大した事ではない。」そんな風に思ってしまって私達は罪の赦し、また神の恵みの偉大さを小さくしてしまっている事があるのではないかなと思うのであります。

私達は主の前に醜い事、汚れた事、自分勝手な事、酷い事をしている認めざるをえないのではないでしょうか?そしてそこにこのキリストの救いを受け入れる時に、本当に赦しの素晴らしさを味わう事が出来るのです。主は私達をどこまでも赦して下さる。あなたの為に何処までも下り、どこまでも伴ってくださる主の赦しをしっかりと受け取るために、一体私はどういう者であったのかともう一度見る必要があるのではないでしょうか?そしてその為に死んで下さったイエス・キリストをしっかりと受け取っていきたいものであります。

そして、「主よ感謝します。主の栄光の為にこれからも生きてきたい」と主と共に歩む僕になっていきたいと思います。ヨハネはこの様にして主を証するものとなりました。私達も真に主のこの恵みを味わい、体験する中で、この栄光を他の人々にあらわせる、主の愛に生かされる、主の赦しの中に生かされるお互いにされていきたいものであります。

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