2000年7月9日 日曜礼拝メッセージ
ルカ3章21〜38節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三
もし皆さんの良く知っている方が、突然ある宗教を始めたと聞いたら「えっ!」と思わずびっくりするのではないでしょうか。実はイエス・キリストを見た人も多かれ少なかれその気持ちがあったのではないかと思います。「大工ヨセフの子供として育ったあのイエスが、急に"キリスト(救い主)だ"と言われても…」という気持ちかもしれません。
今日は、人々の姿、イエス・キリストの姿を通して、"主の前に歩む姿"をご一緒に学ばせて頂きたいと思います。
ヨセフの子ではないか
イエス・キリストはおよそ30歳で人々の前に現われました。この時まで人々からは「ヨセフの子」と思われていました。イエス・キリストが故郷ナザレの町で奇跡をなさった時に、マルコ伝に書いてあるのは、『それで、そこでは何一つ力あるわざをを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。マルコ5章5節—6節』という言葉が出てくるんです。イエス・キリストをよく知っている場所なら、もろ手を挙げて彼を歓迎したかというと、イエス・キリストを"神の子"として受け入れるよりも、「まさか」という気持ちが強かったのでしょう。彼等の不信仰の故に、奇跡を行う事は出来なかった。今日ご一緒に知らされたい事は、私達の中にも同じ様な不信仰がないか?という事です。
私達は「イエス・キリストが神であり、救い主である。」と聞いていますし、知っています。でも本当に神の子、栄光の王として受けとめているか。そこまで頼りきる事が出来ない部分はないであろうか?と問われてみたいと思うのです。あなたに大きな問題が来た時に、神様に「主よ。」と言って頼る事が出来るでしょうか?また、小さな、些細な問題が来た時に、こんな小さな事まで関わってくださる神様として、あなたは神様を見上げる事が出来るでしょうか?私達も民衆と同じ様に、「彼はヨセフの子ではないか」という人間的な思いから中々抜け出る事ができない信仰にとどまっている事はないでしょうか。天から『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と宣言されたお方でありながら、民衆は受け入れる事が出来なかった。同じ不信仰が私達の心にもとどまっている事がないかと問われたいのであります。
罪人の代表となったキリスト
バプテスマのヨハネは人々に、"悔い改めのバプテスマ"を説いていました。「自分が今ある姿は間違っている。神を迎える用意が出来ていない。これまでの生き方を改めます。」と悔い改めをし、バプテスマ(洗礼)を受けたのが当時の人々であります。さて今日のところではイエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けに来た、という出来事が記されています。
ヨハネはイエス・キリストが、ヨハネ自身が待ち望んでいた方であるとすぐに分かりました。ですから、「私があなたにバプテスマを授けるのではなくて、あなたが私に授けてくれるはずでしょう」とこう言った。キリストの答えは『いまはそうさせてもらいたい』というんです。これはどういう意味でしょうか?
それは、イエス・キリストは「今は私は罪人の代表、罪人の一人とされた」という事です。私達の代表となってくださった。罪人の一人と数えられて下さった。皆さん、私達は人から見下げられるとか、低い評価を受けるのは非常に耐え難い事だと思いませんか?私達はプライドが傷つけなれたくないという気持ちが強いのです。ところがイエス・キリストは、自らすすんで、罪人の一人として数えられる事を良しとされた。バプテスマを受けるという事はそういう事なのです。イエス・キリストが神の子供であられた方が、へりくだりの道を歩んで下さった。だから私達が求めるべき生き方も、"へりくだりの道"であると学ばせて頂きたいのであります。
神の力強い御手の下にへりくだる
「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」21〜22節
マリヤは聖霊により身ごもり、イエス・キリストが誕生した訳です。ところがこの時に、もう一度"聖霊"を受けられた。この時に"聖霊による任職"を受けられたのです。そしてキリストがこの世を去る時に、弟子達にこう語っています。
「さあ、わたしは父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24章49節
『父の約束して下さった物をあなた方に送ります。』とある。これは"聖霊"の事であります。今私達に必要なのも、この大いなる御霊の満たしである事をはっきりと覚えていただきたいのです。私達が御霊に満たされるなら、力を受けるのです。エルサレム、サマリヤの全土、および地の果てにまで、主の証人となる事が出来る。それが出来ないのは私達が御霊に満たされていないからですね。私達ももう一度御霊に満たされて、この主の働きに立ち上がる事が期待され、求められている事です。御霊があなたの上にとどまり、御霊があなたを満たす時、あなたは力強い主の証人となりうるのです。
でもどうしたら御霊に満たされていくのでしょうか?それはキリストの、「自らを罪人と等しくされる」という姿の中この秘訣があるという事を覚えたいのです。
「同じ様に若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を見に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、へりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。」ペテロI5章5〜6節
「神の力強い御手の下にへりくだる。」
これが私達が求めるべき姿勢です。私達はともすると、自分を高く見せたい、高く評価されたいといつも汲々してはいないでしょうか?キリストを信じると言うよりも、イエス・キリストを利用して、皆から良く思われるようになりたいとそんな願いである事が多いのではないでしょうか?
イエス・キリストは人間と同じになって下さっただけではなく、罪人と同じ様になって下さり、さらに十字架の死にまで従って下さった。その"惨めな死"こそが、全世界の人を救う"贖いの業"であった訳です。そして
「あなた方もこのキリストと同じ心構えでいなさい。あなた方も人からよく見られ、人から評価される道ではなく、馬鹿にされようとも、なお主の前に尊い道を歩み続ける。神様の前に彼はどこまでも正しき道を歩んだ。だからこそ神は彼に、何にも勝って高い道を与えて下さったのだ。」
これが神様の秩序であります。私達が何故神様の霊に満たされないのか?それは私達があまりにも高慢であって、神様の前にひれ伏す事がないからではないでしょうか?私達はもう一度自らの中に主の満たしを拒んではいないか?主の大いなる力を備えて下さっているという恵みを自らの高慢が妨げていはいなかと問われる必要があるのではないでしょうか?私達は主の前に価値ある道を求めていきたい。神様が丁度良い時に高めて下さる。それまでは、自らで高まろうとするのではなくて、高めて下さるまではどこまでも喜んで下がっていく。共にこの道を歩んでいきたいと思います。