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「主の権威と力」

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2000年7月30日 日曜礼拝メッセージ
ルカ4章31〜44節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

イエスは生まれ故郷のナザレに行かれて、人々に御言葉を語りました。初めは、「イエス様!」といって喜び迎えたのですが、御言葉の真実を語り始めるや、イエスに対して厳しい態度を持ち、遂には村の外れの谷底から突き落とそうとしたという事を前回学びました。

生活の中心に御言葉を

イエスはカペナウムに入る度ごとに、主のメッセージを語りました。恐らく人々が願った事は、すごい奇跡をする事ではなかったかと思うのです。しかしイエスは安息日にはそこで御言葉を伝えた。それが主な働きでありました。今日はまずここに第1の主の御旨を受け取らせて頂きたいと思います。私達にとって御言葉を学ぶ、御言葉を受け取るという事の大切さという事であります。

ジョージ・ミラー、彼はイギリスで2000人以上の孤児を祈りだけで養った人物です。必要があっても決して人には願わず、ただ神にだけ祈る。神様との素晴らしい交わりを持った彼が「霊的生活の活力は、生活と思想において聖書が占める位置と比例している。私はこの事を54年の経験から申し上げます。私は改心してから3年間は神の言葉をないがしろにしていました。しかし聖書を熱心に探求し始めた時から、素晴らしい祝福が与えられている。私は既に100回聖書を通読したが、常に喜びが増し加えられています。何度読んでも私には新しい本の様に思われます。日ごとの聖書を読む時間から受けた恵みは非常に大きいものであった。私は神の言葉の為に時間を割かなかった頃を失われた日々である」と言うのです。

私達の信仰生活において、御言葉こそがこの根底だと言うのです。目に見える事や体験する事も素晴らしい事です。ですからそれをついつい第1にしてしまいがちなのですが、肝心なのは御言葉に学び、御言葉に聞き従うという事だとしっかりと心に留め置きたいと思うのであります。

皆さんはどうでしょうか?この御言葉を生活の中心においているでしょうか?イエスが大切にされた、御言葉に学び聞く。これをしっかりと受けとめていきたいと思います。

偉大な権威を持つ方

「ああ、ナザレ人のイエス。いったい、私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたかを知って居ます。神の聖者です。イエスは彼をしかって、『黙れ。その人から出て行け。』と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。」34〜35節

イエスは権威によって悪霊を追い出された。そして悪霊は、私達よりもイエスの事を知っていると言う事があります。『黙れ。出て行け』と言った瞬間に悪霊が出ていった。正しく神の御力が悪霊を追い出した。しかし霊だからといって全て信じて良いとは言いません。

「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」ヨハネI4章1節イエス・キリストは全てに勝る権威を持っておられるのだから、そういったものを恐れる必要はありません。私達はもっともっと主の権威をしっかりと受けとっていきたいと思うのです。

さらにイエス・キリストはシモン・ペテロの家を訪ねると、ペテロの姑が病気になっていた。すると人々が彼女の為にイエスにお願いした。イエスが熱をしかりつけられると、その熱が癒されて、彼女は直ぐに元気になり、立ちあがってイエスをもてなす程の事がなされたわけです。皆さん、あなたはこの様なイエス様を本当に信じておられるでしょうか?あなたの信じるイエス・キリストが、こんな力がある、こんな権威があると本当に信じているでしょうか?私達は自分でイエス・キリストの権威を引きずり下ろしている事がないでしょうか?

韓国のアン・リスクさんという人が書いた『たとえそうでなくても』という本があります。著者のアン・リスクさんは日本が韓国で神社参拝を強制した時に、信仰を貫いた為、迫害や苦しみを受けた人であります。その苦しみの中で神様に従っていく時に、奇跡と言われる様な神様の御業が日常茶飯事に起きて来たんです。

それを読んで私は「神を信じるということは、こういう事が日常茶飯事の様に起こり得る。そんなすごい方を私は信じたんだ」と思いました。それまで、「神様は、私の祈りには、あまり応えてくれないな」

という感じだったのです。しかしその本を読んだ時、初めて本気になって神様に祈っていくべきだと思っいました。真剣に祈っていく時に、確かに、その応えを見る前から、「神様、この祈りに応えて下さったことを感謝します」と祈れる様になりました。そして信じて祈った事は、必ず応えられるという確信がその時に与えられました。皆さんは如何でしょうか?あなたの祈りを神様は聞いて下さる。私達の必死の祈りに、神様は必ず応えて下さると確信を持っていらっしゃるでしょうか?

「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」ヤコブ4章2節

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」マタイ7章7節

求めないから与えられないのです。それはもっと言うなら、神にその様な権威があると言う事を本気になって信じていないという事あるのではないでしょうか?神様を信じきれない、委ねきれない。もっと実際的な信仰を私達は頂く必要があるんではないでしょうか。主の権威を認める。イエス・キリストは本当に王の王、主の主だ。悪霊を追い出し、また病を癒しをなさる事が出来るお方だ。その方に真剣に求めていく。そうする時に、神はもっともっと祝福を下さるのではないかと思います。

神との交わり

「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆はイエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れていかないよう引き止めておこうとした。」42節

イエスは本当に人々に喜ばれ、受け入れられて、人々は喜んでイエスの話を聞いておられました。でもイエスはその場所を離れて行こうとしました。自分が本当に喜ばれ、歓迎されている場所というのは、居心地が良いですよね。そこを離れがたい気持ちがあります。でもイエスは「その為に私は遣わされたのですから」とあくまでも自分の使命をまっとうしようとする。ナザレでの様に、酷い目にあうかもしれない。そうであっても、私はこの道を進みますと言われた訳であります。神様は私達にも一人、一人にも、神の御心、神の使命に従って歩みなさいと語っている事を覚えていただきたいのです。そこにこそ価値ある生き方、本当に祝福が注がれると言うのであります。そしてここにそのような歩みが出来る秘訣が書かれていると思います。

クリスチャンが、クリスチャンとして歩む為に、どうしてもこの"朝の祈り"が必要ではないかと思うのです。1日の初めに神の前に立ち、御言葉を読み、祈り、神によって整えられて歩む時に、色々な方に対して優しく、また愛を持って接する事が出来る。そんな時間など不要と思えるイエス・キリストも朝早くから祈りました。ですから私達がどうして祈りなくして信仰生活をまっとうする事が出来るでしょう。私達もこの時間を大切にしていきたいと思うのです。その時に私達はイエスが歩んだ様な力強い道を歩む事ができるのでないかと思うのです。

あなたの生涯の中に、神様の御力はどの位信じられているでしょうか?あなたはこの神にどれ位応答をしておられるでしょうか?私達はこの神様の権威をしっかりと認め、本気になって神様を求め、御言葉によっていつも新しくされ、そして神様に心から従っていく歩みにさせていただく事が大切ではないでしょうか?

あなたの信仰はマンネリ化していないでしょうか?それは主の権利を認めてはいないからではないでしょうか?或いはこの御言葉を日ごとに味わうという所から遠ざかっているからではないでしょうか?主の前に、この時間をしっかりと持って、主の恵みに与るお互いとされていきたいと思います。

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