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「わたしの心だきよくなれ」

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2000年8月13日 日曜礼拝メッセージ
ルカ5章12〜16節
メッセンジャー
牧師 吉田耕三

前回私達はペテロの歩みを通して学びました。彼は一晩中漁をしたにも関わらず、一匹も魚が獲れなかった。ところがイエス・キリストが『深みに漕ぎ出して網をおろしてみなさい』と言ったら、二つの船が沈みそうになる程大漁となる経験をしました。この時から、ペテロはイエス・キリストがどういうお方であるのかを深い意味において分かった。だからこそ彼は恐れて、ひれ伏したのではなかったかと思います。今日はイエス・キリストによって癒された、らい病人を通してイエス・キリストの心、そして私達が持つべき信仰の姿をご一緒に学ばせて頂きたいと思います。

わたしの心だきよくなれ

「さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ、お心一つで、私はきよくして頂けます。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」12〜13節

イエス・キリストの時代でも"らい病"は特別な病気とされていました。"らい病"という病は、病気の悲しさと共に、伝染を防ぐ為に、患者は隔離されるというつらさが伴います。らい病が発病した時から、家族、友人からも離れ、町の外に住まなければならないと聖書に記されています。心身ともに悩み、苦しむ訳であります。何の希望も持てないというのが彼等の本当の心ではないかと思います。

そのらい病を患った人がいた所にイエス・キリストが来る。彼にとっては喜びであり、希望でありました。そして彼はイエス・キリストにひれ伏してお願いしたのです。その言葉を聞いてイエス・キリストはどうしたでしょうか?

旧約の教え(律法)では、らい病人に触れる者た者も、汚れたとされました。恐らくもう何年も健常の人が彼に触れる事はなかったのではないかと思います。ところがイエス・キリストは彼に手を伸ばして、ふれられた。そして『私の心だ、きよくなれ』と「わたし(イエス)の思いは、あなたが清くなる事だ」と宣言してくれたのです。するとらい病が一瞬にして消え去っていった。その後イエスは彼にどの様に接したでしょうか?

「イエスは彼にこう命じられた。『だれにも話しては行けない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。』」14節「何故こんな事を言うのかな?」と思いませんか。「私はらい病が治りました!!」

と人々に伝えたら良いのに、と私達なら考えないでしょうか。でもイエス・キリストは『誰にも言ってはならない』と言うのです。これにはいくつかの理由があると思います。一つは、奇跡を求める人達だけの集まりにはなって欲しくないという思いがあったかと思うのです。イエス・キリストが本当に伝えたかったのは、"神ご自身"です。でも私達は奇跡とか、しるしばかりを求めてしまう危険性がある。奇跡は起こるのだけれども、それが中心にならない様にとの配慮かもしれません。

そしてもう一つは、人々が奇跡を求めに来て、肝心の伝道が出来なくなってしまう事も考えたでしょう。しかしイエスに言われても、この人は言ってしまったんです。その声を聞いた人は皆「イエス様、イエス様」と来て、イエスはとうとう町の中に入って伝える事が出来なかったとマルコ伝に書かれています。彼への癒しの業がかえってイエス様の妨げになってしまったのです。しかし、それでもその後イエス・キリストは、非常に用いられていきました。

「しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また病気を直してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」15〜16節私達は用いられれば用いられる程、祈る必要性があるという事をこのキリストの姿から見る様な気がします。

きよくなれる3つの方法

皆さんは、イエス・キリストは、私達がきちんと神様に近づいている、神様に従っている時にだけ私達に憐れみ深い方だと考えてはいませんか?もしイエス・キリストが本当に憐れみ深い方だと信じているならば、もっと積極的に近づく事が出来るのではないでしょうか?

イエス・キリストは、本当にどんな時でも私達に近づいて下さる。そしてそれだけではなく、らい病人にも自ら手を伸ばして触れて下さるお方。イエス様の方から近づいて下さる。私達はもっともっとイエス・キリストのお心をしっかりと受けとめさせて頂く必要があるのではないかと思います。そうする時に私達は大胆にイエス・キリストに近づき、求めていく事が出来ると思います。

イエス・キリストはらい病人に触りました。律法的には、イエスは汚れたのです。そしてこの汚れの為に自ら十字架に掛かるり、汚れを清める為に自分が血を流す事を分かっていた。イエス・キリストは最初から大きな赦しと愛をもって迫っていて下さった。『私の心だきよくなれ』と大きな愛を持って私達に迫って下さっている事をしっかりと覚えたいと思います。

さて次にらい病人の姿から学びましょう。彼の第一の心、それは"主の主権を認める心"でありました。「神様が全てのすべて。大いなる方である。」という心でした。私達はしばしば神様を小さくしてしまう。神様が小さいのではなく、あなたが神様を小さくしすぎていのです。

「こんな小さな問題にまで関わっては下さらないだろう」

と勝手に決めてしまっている。神様はあなたのその小さな問題にも関わって下さる方。大きな問題でも神様に対処出来ない問題はない。あなたは"神様の主権"というものをもっと覚え受けとめていくべきではないでしょうか。

3番目には、『きよくしていただけます』という彼のことばです。自分は清められる必要があるものだという謙遜さ。「私は別に悪い事はしていない。」

こういう態度、心の姿勢の中では神の恵みを受ける事は難しいかもしれません。神様が恵みを与えようとしていても、それは心に蓋をしている様なもので、神の恵みを無にしてしまっている事が多いかもしれません。私達の"心のらい病"も清められていく必要があるのではないでしょうか?イエス・キリストは私達を責めるのではなく、

『私の心だきよくなれ』と言われました。あなたがどんな問題を持っていたとしてもそれに対して『私のこころだきよくなれ』と語って下さっている。私達がそれを受ける為の条件は以下の3つのことが必要です。1.『私の心だきよくなれ』

主にはそれをする権威がある、主権がある。それをする事が出来るという力がある。私はそうされなければ救われない、清められなければならない存在であると主の前にへりくだる。この姿をもって主の前に出る時に、主は『私の心だ清くなれ』と語ってくださるに違いありません。そしてそこから変えられた生涯を送っていく事が出来るのではないでしょうか。

2.癒された人は、恐らく"良かれ"と思い人々に伝えました。自分の思いで人々に伝えていたった訳です。ところがそれは結果として、イエス・キリストが本来伝えるべき人々に伝道する事が出来なくなってしまった。伝道の妨げになってしまった。私達は自分の考えや思いで、「これが良い」と思い、神様の考え、神様のやり方がおかしい、違うと思ってしまう事があるのです。けれどそうではない。神様の方が良く知っています。私達は神の御言葉に従う事が大切ではないかと思うのです。

『神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』ローマ8章28節いつでも何事にも、この信仰、神のこの御言葉に従っていく。これが大切です。自分の目にはおかしいと思っても、神の御言葉を受けとっていく。そこに祝福があるという事です。

3.イエス・キリストはよく荒野に出て祈っておられたとあります。私達は事が上手くいくと調子がのぼってしまって、神様の前に祈る事を忘れてしまいがちです。上手くいけばいくほど、私達は祈りの心を持つ事が大切だと言う事を覚える必要があるのではないでしょうか。イエス・キリストほど祈りの不必要な人はいません。

神の子であったからです。でもイエス・キリストほど祈った人はいない。本当の意味で、事を行う人はよく祈る。私達もその様に祈る姿勢を身につけていく必要があるのではないでしょうか。神様はあなたの心、あなた自身にもこのらい病人に触れた様に、触れようとしておられます。

この3つの事を主の前にしていけたらと思います。そうするなら、神様はあなたにも語ってくださるでしょう。

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