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「神の子となる特権」

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2000年9月3日 日曜礼拝メッセージ
第IIサムエル9章1〜13節
メッセンジャー
流山福音自由教会栗原延元牧師今日は第2サムエル記9章から、神様が私達にどんなに大きな特権を与えておられるかをご一緒に学んでいきたいと思います。

あなたはどこにいるのですか?

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1章12節

ヨハネはこの様に書き記しています。この時ヨハネは恐らく80歳か90歳を越していたかもしれません。若くしてイエス・キリストに従い、信仰を頂いて宣教の働きに携わってきていた。そして福音書を書きます。「イエス・キリストを信じて救いを頂き、"神の子ども"とされた。これが如何に大きな恵みであり、特権である」かをヨハネは福音書の初めに書き記している訳であります。年老いてもヨハネの中には神に対する恵み柔らかい心、神の愛に対する豊かな応答が一つ一つここに出て来ていると思うのです。

サムエル記はダビデがサウルにつけ狙われ、サウルもその子ヨナタンもペリシテの戦いで破れ、ダビデがイスラエル王になっていく過程が描かれています。第IIサムエル9章ではダビデの王権、ダビデの支配がしっかりと確立したのが分かります。ダビデが支配の権威とを確立して後何をするかというと、敵であったサウルの子孫を探すのです。

「王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に恵みを施したい。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」3節

王ダビデは、ヨナタンの為に、彼の子孫に恵みを与えようとしているのです。古代中近東では新しい権力者が現われると、前権力者一族は皆殺害されていた。以前ダビデとヨナタンの間には深い友情があり、彼等は自分自身の様にお互いを愛するという誓いをたてていた訳です。ですからダビデはヨナタンとの誓いを神様の前への誓いとして果たそうしているという事です。これは私達に対する大きな神様の恵みを現している出来事ではないかと思います。皆さんが救われて永遠の命を頂いて、天国の祝福を確かなものにさせて頂いています。でも以前は、神様とどの様な関係であったかと言えば、神に背を向けて生きていた者達であった訳です。

3年前に、イスラエルを旅しました。私はガリラヤ湖に立った時、(日本は、イスラエルの国からは東の果て、地の果てにある様な国です。それでも神様に反逆ばかりしている様な国民を覚えて、福音を届けさせて下さったか)と本当に身震いを感じました。何故に神様私達一人一人をその様に受けとめていて下さるか。何故に神に逆らって歩む私達をなおも愛して、招いて救いを与えんとして下さるか。それは御子イエス・キリストの故なのです。

父なる神はイエス・キリストの十字架の死の故に、復活の故に、この世にあって、神に逆らい神に背いて、罪に罪を重ねていく私達にもなお恵んで、救おうとしておられるという事なのです。もしイエス・キリストが私達に与えられていなかったら、イエス・キリストがご自分の身体を私達に差し出していなかったなら、私達に望みはないという事です。でも神は御子キリストの故に、キリストの裂かれた十字架の血潮の故に、この世に住む私達一人、一人を覚えておられるんです。そして私達に何と語り掛けておるかというと、

「王は言った。「彼は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家におられます。」4節

ダビデが足の不自由なヨナタンの子メフィボシェテがいるのを知った時に、『彼は、どこにいるのか』と聞いているのです。「その子は今何をしているのか?」とは聞かないのです。「何をしているのか」と聞くと、その人がやっている一つ、一つの事柄に関心があるという事でしょう。

その人自身ではないのです。しかし神様は「あなたは何処にいるのか」と聞いて下さるのです。神の前に私達一人、一人はいてもいなくてもよいどうでもよい存在ではなく、無くてはならない大切な存在だという事を私達に伝え様としていると思うのです。しかしそれに対して、人間は神を必要としない生き方、歩み方を繰り返ししているのではないかと思うのです。

ろうあ者の為に伝道をしている先生のお話を聞きました。手話でメッセージを語るのですが、根本的な"罪"(原罪)を手話ではどの様に表すかと言うと、肘を使って、肘鉄を食らわすんです。それが"罪"なんです。私達の根本的な罪は、神と神の御言葉に対して肘鉄を食らわす。あなた(神)の言葉、あなた(神)の求めに対し、

「聞きたくもないし、求めたくもありません。私達は自分のしたい事をして、やりたい事をやって生きていきます。」

これは神様に対して肘鉄を食らわしている生き方です。しかし主はそれでも私達に「どこにいるのか」と問い続けて止まないのであります。その為に御子キリストがこの地上に来て下さった。そして私達を探し訪ねて下さったのです。キリストが人となり私達を招いておられる。そしてさらに私達を通して、キリストは招きの言葉をこの地の人々にも語り続けておられるお方であると思うのです。

王の食卓に座する者

「ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてもよい。」」7節

ダビデの前にメフィボシェテが来ました。ダビデは彼に『恐れることはない』と言います。メフィボシェテは、かつてダビデの命をねらっていた、サウルの孫にあたる。自分は殺されて当然という恐れもあったと思うのです。それともう一つ、身体の不具者が王の前にあるのは、おそれ多いという思いもあったと思うんです。でもダビデはメフィボシェテに恐れるなくてよいと言うのです。

神様も私達に、「恐れるな」と語り掛けて下さるんです。自分の将来の事、自分の今の状況に恐れ不安で眠れないという方もいるかもしれない。或いは自分の醜さ、足りなさを恐れているかもしれない。でもその様な一人一人に神様は「恐れなくてよい」と言うんです。私達は恐れる必要はないのです。何故ならば天と地を造られた神、有りてある神ご自身が私達に「恐れるな」といってくださるからです。そしてその神ご自身が私達にも、ダビデがメフィボシェテに語った様に「王の息子達の一人の様になる」と言い、そして王の食卓でいつも食事をするようになると言って下さるのです。

素晴らしい食事が並べられているのが王の食卓です。でもそこに王自らが座っていなければ、それは王の食卓とは言えないのです。教会が聖餐式を守るのは何の為でしょうか?これは王の食卓から同じ物を食べ、同じ物を飲むという事ではないでしょうか。そしてこの食卓から私達が食べる物、飲むものとは、神ご自身の命です。キリスト自らの命です。イエス・キリストはパンを裂いて「これは私の身体だ」と言い、杯を取り、「これは私があなた方に流す私の血だ」と言いました。そしてイエス・キリストはこのパンを食べ、この杯を飲む者は生きると言いました。その恵みに神は「誰でも与かる事が出来るのだ」と言い続けておられる。罪を犯し続けていた者であっても、神の前に赦しを求め、悔い改めていくならば、「恐れなくて良い、あなたもこのパンと杯の与る様に」と神様は招いておられるのです。

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