2000年9月10日 日曜礼拝メッセージ
ルカ5章27〜32節
牧師 吉田耕三
皆さんが初めて教会に来て持たれた印象はどうであったでしょうか?多くの方が、「教会というのは、優しい人で、良い人で」という印象を持って来られる事が多い様に思います。確かにクリスチャンは変えられている部分はありますが、でも現実を見ますと、本音の部分はやはり"罪人"でありますから、深く教会に関わりますと「あらっ、何か人が違うみたい」と思う事もあります。
私達は教会とは"罪人"が集う場所である事をもう一度明確にしていきたいと思うのです。イエス・キリストが来られたのは『罪人を招くため』で決して良い人、正しい人ではなくて、自分で弱さを持った人々を招く為であったのだともう一度あらたにさせて頂きたいと思います。
取税人レビ
「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。」27節
アルパヨの子『レビ』が彼の名前でしたが、クリスチャンネームといいましょうか、通常は"マタイ"と呼ばれています。"取税人"というのは、当時"罪人""強盗""盗人"と同じ様な意味があったと言われています。何故かと言いますと、当時イスラエルはローマの属国であり、税金を取る為に一つの方法が取られていた。ローマ人が直接イスラエル国民から税金を取りたてる事はせず、ユダヤ人にユダヤ人の税金を取りたてさせたのです。その代わりに取税人達が誤魔化しやインチキをするのには目をつぶったというです。そうしますと、定まった税金の2倍3倍を徴収するというのは、珍しくなかった訳です。ですから彼等は"盗人・強盗"の類の言葉として使われる様になったのです。
さて、取税人、彼等の中に一つの人生哲学があったのではないかと思います。「『神様、神様』といったって金がなければ何も出来やしない。金が全てだ」
と、一つの考え方が彼等の内にしっかりと根付いていたのではないかと思います。マタイ自身も少なからずその考え方にあって取税人になったと思います。ところが長い取税人生活の中で、この様な思いでやりきれないのを彼は感じた。(これが自分の本当の道ではない。何とか本当の道を知りたい。)イエス・キリストの事を聞く時に、もしかしたら(イエス・キリストに従っていきたい)という思いがあったかもしれません。でも取税人ですから、とても自分がそこにいくとは言えないし考えられない訳ですね。
しかしここでイエス・キリストご自身が『取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。』のです。マタイの心の中にある本当の思いをイエス・キリストは見抜いておられた。表面的にこの人がどういう立場であるとか、何を考えているのか何をしているとかではない、その人の本当に願っている事をイエス・キリストは見抜いて、本来ならば「収税所だ」と顔も見ないで通りすぎるのであったかもしれないのですが、イエス・キリストはその中にいたマタイに目を留めて『わたしについてきなさい』と言った。このお方が私達にも同じ様に目を向けて下さっている。私達の心に目を留めて下さっている事を覚えたいのです。あなたの心の本当の願いにイエス・キリストは目を向けて下さいます。そしてそれに応える事が出来る方だという事も覚えて頂きたいと思います。
レビを変えた出会い
「するとレビは何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」28節
大変な決断です。今まで持っていた、有意義な生活や豊かな家や様々な物があったでしょう。それを全部断ち切って、全部捨てて、イエス・キリストに従うという決断が皆さん本当に出来ますでしょうか?マタイはそれをする事が出来たのです。何故でしょうか?それは彼の心の中にあった葛藤の中で「金が全てではない」という結論がはっきりとついていた。(この方こそが自分の生涯をかけて歩むべき道だ)と明確な思いがあったからではないでしょうか。彼は明確な心構えの中で、イエス・キリストに従う決意をしていったのではないかと思います。するとレビはそこにいい知れない満足感や充実感があったのでしょう。
「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ふるまいをしたが、取税人たちや、ほかの大ぜいの人たちが食卓に着いていた。」29節
彼は(このイエス・キリストを自分の友達にも知らせたい。)取税人達は、神様から遠いと思われていても本音は皆求めているんだと彼等を招いた訳です。マタイは色々な人にイエス・キリストを知るチャンスを与えたのではないかなと思うのです。その時にパリサイ人や律法学者が何と言ったか。
「するとパリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向って、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いをするのですか。」30節
当時イスラエルでは「異邦人は汚れた者、取税人も汚れた者。彼等とは交際をしない」という考え方であったのです。だから「イエスはマタイだけではない、その仲間と一緒になって食事をする。何という事だ」と言う訳です。ところがイエス・キリストはここで大事な言葉を語りました。
「そこでイエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるためにきたのです。」31〜32節
福音の重大な原則をイエス・キリストはここで宣言してくださるのです。元気な人、良い人が教会に来るのではない。弱って、疲れて、重荷を負っている人は私のところに来なさい。(自分は罪人だ、自分は汚れている、相応しくない)と感じる者そういう人こそが教会に相応しいのだ。ここに来るべきなのだとイエス・キリストは言うのです。
私達は自分が罪人である、汚れているという事が"教会に来る"という事に対してなんら妨げにならない事を知って下さい。「私はあまりにも汚れているから、だから教会には相応しくない」という人がいます。しかし敢えて言わせてもらうなら、そういう人こそが教会に来るべきなのです。
『医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。』
とあります。イエス・キリストはその為に来たのです。ですから私に必要なのは、(自分は病人なんだ)という理解です。(自分は正しい人ではなくて罪人なのだ。救われなくてはならない存在なのだ。清めて頂かなくてはならない存在なのだ)と感じる事が出来るかどうかという事であります。
私自身はそんなに自分が"酷い罪人"とは感じていなかったのです。ですからイエス・キリストの十字架が『罪人を赦すためにある』と言われてもあまりピンとこなかったんです。そんなに自分が"酷い"とは思わない。"まぁまぁ"と思っている方が多いのではないでしょうか?実はかえってこれが問題なのです。だから神様は私達の内に段々、段々光を与えていって、自分は"汚れた者"、"罪人"である事を教え始めるのです。教会に来始めて最初は"愛"とか"優しさ"とかが感じられ(よかったな)と思うのですが、その内に教会に行くと、何か責められているような気がして段々重くなってくるという事を聞く事があります。実はここで神様は私達が正しくそこに該当する人物なんだ、自分が"病人"であったんだ、自分が"罪人"であったんだと分かる為にその事を示し始める事があるのです。神様の光が入れば入るほど私達は自分の醜さが見えてくるという事なんです。ですから(私はこんな風では救われない)と思える人は幸いです。神様の光がどんどん皆さんの中に入ってきているという事なのです。ですから喜べば良いのです。「こういう私を救う為であったんですね。」
『罪人を招いて悔い改めるさせるために来たのです。』この御言葉にしっかりと目を向け、心を向けていきたいと思うのです。「こういう私だから十字架が必要であったんだ。だからイエス・キリストが来てくださったんだ。感謝します。」それは主への喜び、感謝、賛美へとなっていく訳です。私達が罪が分かれば分かる程、恵みが分かってくるのです。私の内側の汚い物が見えてきて「あぁこうだったんだ」と思っても失望しないで下さい。『だからイエス・キリストが来て下さったのだ』という所にしっかりと立っていけたらと思います。これこそが正しく福音の一番大切な考え方である訳です。『罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。』この事をしっかりと覚えさせて頂きたいのです。
赦しを与える悔い改めを
悔い改めるという言葉は元々は「メタノイヤ」方向転換、回れ右という意味です。私達は自己中心で生きてきたと思いませんか?自分で「良かれ」と思う道を歩んできたというと分かり易いですね。でもそれは結果として大体"自己中心"なんです。そしてその様な基準で歩んでいるならば、私達は自分が『まぁまぁの人間』だと思っているんです。でもそれが方向転換して神様の方に向きますと事は違ってくるのです。神の方を見る事によって自分の姿、基準が分かる。そうする時に「主よ赦して下さい」という悔い改めが出てくる。そして神様はその悔い改めによって私達を清めてそこから引き上げ、そこから変えて下さろうとしているのです。私達はこの恵みに進んでいく、歩んで行く事が大切ではないかという事なのです。
私達は長い間人から責められない様にと生きる術を身につけて来ました。自分が一方的に責められる事のない様に、自己防衛と言い訳を使い分けながら歩んできたのではないかと思います。そしてその習慣はいつの間にか神様に対してもその様になってしまっている。色々な言い訳や弁解を持って神の前に正直出る事を誤魔化してしまっている事が多いのではないかと思います。しかし私達に必要なのは「私はそういう者です。罪人、病人なのです」と言う事が大切なんです。
悔い改め、罪の赦し、神の方に目を向け、神の赦しと解放を味あわせる為に、私達に罪を示されるという事を知って頂きたい。神が私達に罪を示した時に必要なのは「そうです。その通りです」と告白するです。その時にイエス・キリストはご自身の十字架の血潮で私達を清めて、罪から解放して下さる。私達が本当にこの力を信じ頼る時に、私達は変えられていく力が与えられる。イエス・キリストは健康な者ではなく、病人を招く為、また正しい人を招く為ではなく、罪人を招いて悔い改めさせる為に来たのです。この言葉をしっかりと覚えさせて頂きましょう。
私達はこの方にしっかりとつながり恵みの中に生かさせていただきましょう。その時にイエス・キリストは私達にも呼びかけられます。『わたしについてきなさい』(私なんか…)と思うかもしれません。でも今与えられている立場、持ち場の中で「主よ、今あなたに従います」と立ち上がる決意が必要ではないでしょうか?主の前にもう一度この決意をさせて頂く者となっていきましょう。