2000年9月17日 日曜礼拝メッセージ
ルカ5章33〜39節
牧師 吉田耕三
クリスチャン生活の中で、自分自身で自分自身を不自由にしている事が結構あるのではないかと思います。
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8章31〜32節
本来"真理"といわれる聖書の御言葉は私達を自由にさせていくものであります。ところが「どうも御言葉がくると不自由になってしまって、苦しくて仕方がないんだ」という方がいらっしゃらないでしょうか?これは御言葉の適応を少し誤ってしまっている可能性が高いかと思うのです。今日一緒にパリサイ人がイエスを非難した事、それに対するイエスの言葉に神様が備えて下さった自由の中に生きる生き方を学ばせて頂けたらと思います。
人の目を気にする信仰
前回取税人レビ(マタイ)はイエスの『私についてきなさい』との呼びかけに喜んで応えた。そして家にイエスと仲間の取税人や罪人達を招いて共に食事をした。それを見たパリサイ人が、正当なユダヤ人はそんな者達とはつきあわないのだと言いました。そして同じ様にしてパリサイ人達はここで再びイエスの行動に非難を浴びせ掛けます。
「彼らはイエスに言った。「ヨハネ(注1)の弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」33節(注1:バプテスマのヨハネ)
「本当に信仰深い人であれば、もっと断食をするはずでしょう。あなた方はそんなに楽しんでばかり、食べてばかりいてよいのですか」と文句を言う訳です。それに対してイエスは、
「イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につきそう友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかしやがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」34〜35節
ユダヤでは結婚する時に1週間位祝宴の時を持つのです。毎日毎日友達や親戚が来て目の前にご馳走がたくさん並んでいる時に「花婿の友達よ。あなた方は断食です」と言えますか?今自分(イエス)がここにいるのは、正しく喜びの時。そんな時に何故断食をしなければならないのか?よく考えなさい。あなた方は習慣の様にそれをしているが、本当の意味の断食を知らなければならない。断食とは自発的なものでなければならないという事を教えている様に思います。更にイエス・キリストはもう一つの例えを話されました。
「イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。」また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる様なことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。」36〜37節
これはクリスチャンの生き方を象徴して語っている訳です。私達の信仰生活のあり方をここで学ばせて頂きたいと思います。第1に私達は人の目を気にする信仰生活か、神様の目を気にする信仰生活か、ということです。
しばしば私達は人の目に立派に見える信仰生活を心掛けてしまう可能性があるかと思うのです。この箇所でのパリサイ人の信仰の視点は、"人の目を気にする信仰"だと思うのです。"神の前に"ではなくて"人の前に"と歩んでいた訳です。人の目や考え方に縛られてしまっている生き方であったかと思うのです。それに対してイエス・キリストは、弟子達に形式や形ではく、神の前に本当に内側から流れ出てくる命の生き方に歩むべきだと教えて下さっている様に思います。形式や人の手前ばかりを気にしてしまう生き方ではなく、本当に命みなぎる力ある喜びのある生き方に変えられていく事が大切だと教えているのです。
心から捧げる者に
形ではなく本当に心から捧げる者に主は豊かに報いて下さるのです。当時のパリサイ人はわざわざ道の4つ角に行き、手を挙げて祈るのです。それは人が見ると(あの人は本当に信仰深い人だ。いつでもあの時間になると祈る)と、神の前に祈るというよりも、人の前で信仰深さを見せてしまう生き方をするのです。それに対してイエスは、実質的に神の前に出る生き方をしなさいと説くのです。
先ほど新しい布切れと古い布切れの話が出てきました。私達の信仰生活をある事は古いやり方で、ある事は新しいやり方でと考えてしまう傾向があるのです。しかしそうしますと実は両方ともダメになってしまうというのです。一見良い様に見えて、それは却って私達を混乱させている。クリスチャンとして昔の様に生きられないし、かといって神様に本当に頼りきった生き方も出来なくなってしまう。
私達はこの世の物も半分、神の物も半分というクリスチャン生活をしようとしていないでしょうか?その為に自分が引き裂かれるような状態になってしまっていませんか?私達が神様の恵みの中に歩みたいと思うならば、新しい生き方をしていく必要があるという事です。新しいぶどう酒は新しい皮袋に。私達は古い生き方をやめて新しい生き方に変えられていく必要があるという事です。
新しい生き方への決断
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖霊を持って神にかたどり造り出された、新しい人を着るべきことでした。」エペソ4章22〜24節
クリスチャン生活が豊かなものとなる為には、古い生き方に死んで、新しい生き方に生きる決断が必要であるという事なのです。私達はついつい昔の生き方と今の生き方と半分半分にしておきたいと思う訳です。その方が何か都合が良い様に思うのですが、結局両方上手くいかないという状況になってしまいますという訳です。ではぶどう酒を新しい皮袋にというのは具体的にどの様な生き方なのでしょうか?それは簡単に言えば「御霊によって歩む」という生き方です。
私達は今までの習慣や経験や考えで生きてきました。ですからそれを離れるのは、中々出来ない面があります。今までそれなりにやってきたのですから、新しい所に入るには、少し戦いがあるのです。でも私達は思いきってそこに入っていく事が大切です。
具体的にどうしたら良いのでしょうか?あなた方の中に生きていて下さる方、あなたの中に既に来ていて下さっている御霊を受けとめる、認める事です。今まではその事を認めていなかったかもしれない。その為に神の恵みをあまり味わう事がなかったかもしれない。もしその事を認めているならば、次には"その方に委ねる。従う"という決断が十分ではなかったかもしれません。この方に委ね、従う事が出来るようになってくる時に、この方があなたを生かして下さるのです。
あなたに必要なのは、この方にもっと信頼し、委ねていく事です。思いきって神様に頼るクリスチャン生活に入っては如何でしょうか?その時にあなたの内にもみなぎる聖霊の命が溢れるクリスチャン生活が現れるでしょう。神様の提供して下さっている新しい命の歩みに踏み出しては如何でしょうか?御霊はその為に既にあなたの内に来て下さっているのです。主に明け渡し、力を体験していく。そんなクリスチャン生活に共に導かれたいと思います。