2000年9月24日 日曜礼拝メッセージ
ルカ6章1〜11節
牧師 吉田耕三
聖書の御言葉は時に分かり難い箇所がしばしばあります。特に"恵み"と"律法"について迷ったり、混乱してしまう事があるかと思います。本日の箇所には"恵み"と"律法"の関係を解き明かす一つの秘訣が記されている様に思います。
本当の戒め
「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」1〜2節
ユダヤには、「貧しい人や旅人は、麦畑に入って麦を摘んで食べても良い(レビ記19章9〜10節)」という教えがあります。現代の福祉に勝る福祉が旧約の時代に築かれていたのです。それでイエスの弟子達が麦畑に入って麦を食べていたのです。ところが"安息日"であった為にパリサイ人から非難を受けます。十戒に従い、イスラエルの民は安息日を一生懸命に守りました。この戒めを守る為に、彼等はさらに多くの戒めを作っていきました。安息日の仕事は細かく規定されているのです。「これは持っても良いが、あれは持ってはいけない。」「1km位は歩いても良いけれど、それ以上はいけない」とか。
元はといえば律法を守ろうとする心からであった訳です。その規定からすると弟子達の行動が気に入らなかった。麦の穂を取りました。これは収穫です。麦の殻を取りました。これは脱穀です。殻を落とした。これは振り分ける。食べました。これは食事の用意をする。それらは全て"仕事"だというのです。"仕事"を安息日にした。これが問題になっているのです。この時のイエス・キリストの答えは、
「イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたはダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」3〜4節
ダビデが敵に追われ逃げてひもじかった時、聖所の祭司の所に行き、祭司しか食べてはいけないパンを食べた。そしてその事が特に咎められたという事も聖書には記されてありません。「本来ならばしてはならないその事が受け入れられた事を知らないのですか?読んだことがないのですか?」とイエスは問う訳です。
ここでパリサイ人達が陥った過ちは、聖書の教えを表面的な意味だけで捉え、「あれはいけない。これもいけない。この様にしなければならない。あの様にしなければいけない」という信仰生活の人に対して、本筋は何であるのかをあなた方はよく考えなさいとイエス・キリスト示唆したのです。
神様が私達に戒めを下さったのは、私達が幸せになる為です。ところが私達はその戒めを律法的、或いは表面的に捉えて、「あれをしなければならない、こうしなければならない。あれはしてはならない。これはしてはならない」としてしまうのです。そうすると、段々苦しくなってきます。
聖書の戒めは私達が幸せになる為、私達が自由になる為であります。ところが私達はその"戒め"を縛る為に考えてしまい、結果として聖書の言葉によって自由にならず、縛られて苦しくなってしまう。弟子達がパリサイ人の目から見ると確かに律法を犯している訳です。"安息日を守りなさい"でも一体この律法が何の為に備えられたかをよく考えなさいとイエス・キリストは言っているのです。
安息日は、6日働いて1日休む。そういう生き方をしなかったら、神様を崇める生活をしなかったら、人間は人間らしさを失ってしまうから、6日働いたら1日休んで神様に礼拝を捧げ、賛美を捧げなさい。あなた方が人間らしく過ごしていける術ですと教えられているのです。私達は「忙しい、忙しい」といっていると、心を亡ぼして、反省する余裕もない、神を思う事もない。人間として生きる事が出来なくなってしまう。だから"安息日"の意味を考えるならば、「人間の幸せの為であり、縛る為ではない」という事に気が付かないのですかと言っている訳です。
「別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。」6〜7節
彼等は(右手が萎えて大変だったな。どんなに苦労してきただろうかな。イエスが治してあげてくれるかな)と期待するのではなく、(あのイエスはまた律法違反をするのか。)と人を裁く目、批判する目でしか見ていないのです。よく考えてみると私達もやっていませんか?人を裁く心で見ている。私達の姿ではないかと思うのです。そんなパリサイ人達にイエス・キリストは言いました。
「イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか。どうですか。」8〜9節
彼等としても答え難いです。言っている事は間違っていない。イエス・キリストは安息日が何の為にあるのか、あなた方が良き事を行う為ではないのか、人々が良い目を受ける為ではないのか、本当の意味での安息日の意味合いを思い起させようとしたのです。
恵みに生きる生活
「そしてみなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。」10〜11節
(イエスは本当に神様だ。素晴らしい事をしてくれた。なんと感謝な事か)と思う時に、彼等はイエスをどの様にして葬り去ろうかと考えるのです。私達はここから何を学ぶ事ができるでしょうか?この二つの姿は、私達自身の心の姿です。私達もパリサイ人と同じ心でみている事はないでしょうか?子供や周りの人に対して、自分の考え方や自分の基準で、その基準にあっていないから、「おかしい」自分の基準ですね。自分で作った教えを基準にして、人を裁いたりしていないか?"律法""戒め"は私達の幸せの為に、神様が下さったのです。ですから私達が喜んで守っていくなら、幸せになっていけるのです。問題は私達がそれを嫌いやながら、『ねばならない、ねばならない』そんな生き方になってしまうのではなく、戒めの本質を捉えて、それに従っていく者にならせて頂きたいのです。
私達が本質を理解して従っていく事が大切であるということです。私達は破っていないか、怒られないか、非難されないかではなく、何が良い事なのか、主が何をする事を喜んで下さるのかと積極的な生き方に進んでいきたいものです。それは私達にとって喜びであり、幸せをもたらすのです。別の言い方をしますと、「恵みに生きるクリスチャン生活」という事が出来るのではないかと思います。
取税人とパリサイ人の祈りを覚えていますか?取税人は顔を天に向けようともせず、胸を叩き、『こんな私を憐れんで下さい。』と祈っているのです。その後の言葉どちらが神の前に義と認められて帰ったでしょうか?『パリサイ人ではありません』とわざわざ書いてあるのです。私達も良き事が出来ない愚かな者です。でもこんな者をも神様は憐れんで下さる。「主よ感謝します。私も戒めを守れる様にして下さい。」イエス・キリストは『求めなさい、そうすれば与えられます』と言って下さっているのです。その道に私達ももっともっと進んでいきたいものです。その秘訣は何でしょうか?
右手の萎えたこの人はイエスの呼びかけに従い、立って真中に出て行きました。素直に神様の言葉を受け取ったこの人物。彼は『手を伸ばしなさい』と言われた神様の恵みを受け取る事ができました。でも一方のパリサイ人達は、折角の御言葉が恵みにはならず、却ってキリストを亡き者にしようと考える様になってしまったのです。私達は神様の言葉を素直に聞く者となっていきたいと思います。取税人の様に「こんな私を憐れんで下さい」と祈りながら恵みによって主に従っていくお互いにされていきたいと思います。