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「御国の価値観」

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2000年10月15日 日曜礼拝メッセージ
ルカ6章20〜26節
牧師 吉田耕三

私達の人生はそれぞれが価値観を持って歩んでいます。場所、時代、状況によりそれぞれ違う価値観を持っています。日本では食事の時に、茶碗を持つのが習慣です。しかしお隣韓国では全く逆なのです。日本では持たないとエチケット違反ですが、韓国では持ったらエチケット違反なのです。国や地域や場所により、私達が"当然"と思っている事柄も違ってくるという事なのです。私達はイエス・キリストを信じた時に"新しい命"、それは"天の御国の命"を頂いたのであります。そして私達はこの命によって豊かな生き方をする事が出来るのです。しかしなかなか"神様の考え方・価値観"を受け留める事が難しい様に思うのです。

貧しき者は幸いなり

今日は、私達が惑わされてしまいやすい"神の価値観"と"世の価値観"の違いを教えている様に思います。"山上の説教"と言われております、『心の貧しき者は幸いなり……』という言葉でよく知っていると思います。

「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。いま飢えている者は、幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」20〜23節

初めて聞いた方は、『貧しい者は幸い』(そんなはずはない)と思われるでしょう。なぜ貧しい者が幸いなのでしょう。それは『神の国はあなたがたのものだからです』と次の言葉にあるからです。"神の国"とは、『神の御支配する所』という意味です。神様に従う所、又は神に頼る所、そこが正しく"神の国"という事なのです。本当に自分が貧しいと思う者。その人は神に頼らざるえませね。自分に自信を持って堂々と歩める人は(別に頼る必要はない)としか思いませんから、頼りません。ですから"神の国"を経験する事もない訳です。

実際的な生活面、また心の面において、もし私達が貧しければ、飢えているなら、その人は神様を本当に追い求めていくでしょう。だから幸いなのですと語る訳です。

ルカ16章に貧乏人ラザロと一人の金持ちの話が出て来ます。貧乏人ラザロとその金持ちが死にました。ラザロは地上では飢えた貧しい生活をしていましたが、彼はアブラハムの懐で安らいでいた。それに対して豊かな生活をしていた金持ちは、ハデスで苦しんでいた事が記されています。あなたがたはこの様に永遠の祝福の中に置かれるのだから、今飢え乾いて神を求めるのが良いと言うのであります。更に

『いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから』。

ともあります。アブラハムの妻サラは90歳になるまで子供が生まれなかった。神の使いがサラに子供が生まれると言った時に彼女は(馬鹿馬鹿しい)と笑ったのです。それは辛さ故の笑いでしたが、1年後に(本当に神様がこの私に子供を下さった)と笑ったのです。悲しんで涙していた彼女が、神様の祝福によって後に笑う様になったのです。今あなた方が色々な事で苦しんで涙しているかもしれない。しかし神様はあなた方を遠大なご計画の中で導いていらっしゃいます。今は(何故こんな事が起こるのか?何故こんな風になってしまうのか)思うかもしれませんが、後の日になって(この事の故に神様はそれを許されていたのだ)と私達は納得と心からの笑えるのです。

天での大きな報い

「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上って喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。かれらの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。」22〜24節

自分の罪の故ではなく、イエスさまの名前の故に私達が馬鹿にされ、けなされているのなら、『あなた方は幸いです。喜びなさい。おどり上がって喜びなさい』何故ですか?『天ではあなたがたの報いは大きいからです』というのです。

ある方はクリスチャンの故に酷い悪口を言われ時、心の中で(もっと言って)と言うそうです。何故ですか?悪口を言われる度に報いが天において増えていくからです。もしイエスの故に、「そんな馬鹿馬鹿しい事」と言われたら、皆さんの宝が天で一つ増えるのではないでしょうか。これは神様の約束です。だから喜ぶ事が出来るのです。これは私達の考え方とは全く違うのではないでしょうか。神様の為に歩んだイザヤやエレミヤ等の預言者達が神様から大いなる報いを受けるのであれば、あなた方もまた報いられるという事であります。

「しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めをすでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。」24〜25節

普通なら、(お金が無いよりも有る方が良い)これは私達のごく自然な考え方だと思ういます。でもイエス・キリストは『富んでいるあなたがたは、哀れな者』と言うのです。それは『慰めを、すでに受けているからです。』先程もの貧乏人ラザロは地上で非常に苦しい生活をしました。だから彼は天で豊かに報いられたのです。地上で既に富みを得てしまったが為に、天国ではもうもらえない。また、

『いま食べ飽きているあなたがたは、哀れなものです。やがて、飢えるようになるからです』日本人は皆ギクッとするのではないでしょうか。飽食は幸いではなくて、神の目から見たら哀れなである、と言うのです。『いま笑っているあなたがたは、哀れなものです。やがて悲しみ泣くようになるからです。』

例えば「自分こそ全てに打ち勝った。成功者だ」と笑っている人が、永遠の裁きの日にはどう思うのでしょうか?私達の目はいつもこの世ばかりを見ています。地上で幸せならばそれで良いと思ってしまいます。しかしそれは間違っているという事なのです。ここでイエス・キリストが語っている事は何であるのか。私達が価値観を変えなければならないという事です。イエス・キリストを信じた時に、神様は"新しい命(新しい価値観に生きる事が出来る力)"を下さいました。それをしっかりと受けとめて、「私は新しい価値観に生きる必要がある」と認める事を私達に教えて下さっている様に思います。

この世の考え方は、クリスチャンになっても『貧しい者が幸い』だ等と何故そんな事をいうのかと思ったり、素直に神の価値観を受け取る事が難しいのです。私達は頼りにならない物を頼り、大事でない物を追い求めてしまう。クリスチャンと言ってもその道を突き進んでいる事が多いのではないでしょうか。私達はこの考え方を逆転する必要があるのです。そこに私達の本当の勝利と解放があるのです。御言葉に立つ時に、将来を希望し仰ぎ見て待ち望む事が出来るようになるのです。

私達は神様の価値観からずれ、違う価値観に惑わされています。その事を「神様、見える様にして下さい。認められる様にして下さい。そしてそこを直して下さい。」と祈る事が必要ではないでしょうか。私達は出来ない弱さの中にイエス・キリストをお迎えするという事です。そうするとイエス・キリストがそれをやってくださる。あなたの内にある(私はこの世的な思いが取れない)その事を正直に神様に言えば良いのです。「私はこんな者ですが、お任せします」と委ねる。神様はそこに来て下さって段々と変えて下さいます。そして私達の考え方もイエス・キリストによってこの世的なものから、永遠の祝福を頂く考え方に変えられていきたいと思います。

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