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「主の使命に生きる」

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2000年10月22日 11周年記念礼拝メッセージ
申命記1章19〜33節
牧師 吉田耕三

今から丁度11年前、北中山のコンラッド宣教師のお宅で、仙台福音自由教会の第1回礼拝が捧げられました。その日から11年が経ちました。私はそれ以前、「東北」を全然知らなかったのです。日光以北には来た事がありませんでした。東北にも福音自由教会が出来たらよいなと土地は購入してありました。そして遣わされる人を神様はおこしてくれないかと福音自由教会で祈りをしていたのですが、ある時からそれが私に語り掛けられてきた訳です。そして神様は、今遣わされる仙台だけではなく、東北全地に主の業をなさろうとしていると信じ受け取った。多くの約束の中で一つ一つ成し遂げて下さった訳です。

良きことを行われる神

イスラエルの民は神様の不思議な御手でエジプトから救い出され、約束の地カナンに入る為に、カデシュ・バルネアという場所に来ました。そこで彼等は過ちに陥ってしまった訳です。ともするとそれは私達もまた陥りやすい過ちではないかと思うのですね。

教会の事を、「霊的イスラエル」と表現する事があります。神様の前には、イスラエル人の様に選ばれ、神に従う人生に入れられた訳です。しかしその過程において、多くの過ちやまた誘惑を経験すると思います。私達はその注意点を学び、そしてそこからどのようにするべきなのかを学ばせて頂きたいと思います。

「そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」するとあなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいっていく町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。」20〜22節

「神様が約束した地はもう与えられているのだから、信仰を持って前進して行きましょう」とモーセが言った訳ですが、人々は、「本当に神様が約束された地であるのか。土地は豊かなのか、人間はどういう人達がいるのか、もう少しその地の様子を探ってから行った方が良い」と提案したのです。モーセも意見を悪くはないと思い、人を遣わして調べさせてきた訳です。結果は、「その地は良い地です。」という報告がありました。彼等はエシュコルの谷から豊かに実る葡萄の房を枝ごと切り取って運んできた。神様が「この地こそあなたがたの為に備えられた良い地だ」と納得した訳です。ではそれに従ったのでしょうか?

「しかし、あなたがたは登っていこうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。そしてあなたがたの天幕でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。」26〜27節

彼等はその地が非常に良かったのを分かったのです。けれども、そこに従っていく事が出来なかったのは何故でしょうか?私達は色々な物事に直面した時に、困難や戦いに出遭った時にどの様な態度をとるか。全く二つの態度を取る事があり得るのです。私達は物事を神様を通して見るのか、或いは問題点や困難だけを見るのかという事であります。

彼等は『主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる』と考えたのです。神様に対して彼等は不信を抱いた。(神様は良い方ではなく、私達にいじわるをする方だ。酷い事をする方だ。だからエジプトから、私達を殺す為に、酷い事をする為にこんな所に連れて来た)と考えたという事です。更に見える特徴は、"悪意を持って見ている"。物事を悪く悪く見ていると思いませんか?しかし聖書の御言葉はそうは言っていません。

「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられる。あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるから。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」イザヤ30章18節私達の心には、(災いを通して、苦しめて私達を訓練しようとしているんだ。少しいじわるだ。)と思ってしまう事があるかもしれません。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8章28節

神が『全て事を働かせて、良い事に変えて下さる』と言っているのです。ところが私達は、何か嫌な事があると、(神様は私に意地悪をしている。どうせこんなものだ)と悪く悪く考えてしまう傾向がないでしょうか。イスラエル人の陥る過ちはまた、私達も陥る過ちでもあるのです。そして私達が正さなければならない考え方の第1は、神様は私達に意地悪をされる様な方ではない。神様は私達を試練から脱出させて下さると約束して下さっています。

神様は良き事をしようとされているんです。物事を見る時に、悪い点、困った事だけを見ますと、(神様なぞいない。神様は意地悪だ)と考えてしまう。でももしも私達が神様を通して問題を見る時に、(神様は何か目的があって、何か意味があってその事をしている。そしてそれは益となる)という所に立つ事が出来ます。そうする時に呟きは信仰による喜びに変わっていくのです。(神様が必ずこの事を良きにして下さる。益にして下さる)と思う時に希望が湧いてくるのです。私達がどちらの道を選ぶか注意していきたいものです。

信仰を持って進む

イスラエルの民は神様に対し、不信感を抱き、物事を悪くとってしまった結果、用意されていた良い地に進んでいく事が出来なかった。そればかりか彼等は40年間荒野を旅しなければならなくなった。放浪生活の訓練を通して神様が本当に頼りになる方である事を知るようになりました。40年後ヨシュアに率いられたイスラエル人達は、エリコやアイを征服していく民となる事が出来たのです。私達はこれらの事から教訓を得ていく事が必要ではないでしょうか。神様は私達に様々な祝福と恵みを与え様としておられるのです。しかし私達はその時に何が必要か?

第1に、どんな事でも出来る神様を見上げる事が大切です。問題そのものを見てしまう時に私達はたじろいでしまうのです。そこでどんな事でも成し遂げられる神様を見上げる時に、(神にはどんな事でも出来る)という信仰が働き始めます。

信仰を持って「あなたには出来ます」と信じて進んでいくならば、神様はその御業をもっともっと進める事が出来る。イスラエルの民も現実の試練や困難を見て(出来ない。難しい)と考えました。でもそれを信仰を持って見るならば、(それは神様が与えたのだ。それならば神様が耐える事の出来る力も、脱出の道も必ず与えて下さる。)と希望を持ち、前進する時に、確かに勝利へと変えられていくと思います。皆さんには今どんな信仰のチャレンジの中に置かれているでしょうか。「あなたは神である私を信じて前進してみたらどうですか?」とその場所に置かれてはいないでしょうか。あなたの前にあるチャレンジを主ご自身が置かれたならば、「主よ、私はそこに進んで行きます」と祈って前進していこうではありませんか。

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